【寛政の改革】松平定信と徳川家斉の政治とは?

【寛政の改革】松平定信と徳川家斉の政治とは?

こんにちは!

江戸三大改革の一つとして知られる『寛政の改革』。

寛政の改革は江戸幕府11代将軍である徳川家斉や、老中である松平定信を中心に行われました。

共に江戸三大改革である、享保の改革天保の改革と混同しやすいこの寛政の改革について要点をまとめてわかりやすく解説していきます!

松平定信ってどんな人?

松平定信は、享保の改革を行なった8代将軍、徳川吉宗の孫にあたります。

元々は白河藩(現在の福島県)の藩主として、藩を治めていました。

しかし、天明の大飢饉の際に、苦しい藩政を立て直した実績が評価され、老中に就任しました。

それ以降は、老中(将軍の補佐役)として徳川家斉の下で寛政の改革を行なったのです。

徳川吉宗の孫である松平定信は白河藩の藩主であったが、藩政の腕前が評価され、老中へ就任

寛政の改革とはどんな政治?

寛政の改革は、8代将軍徳川吉宗の享保の改革に倣って行われたものでした。

徳川吉宗の行なった享保の改革についてはこちらをご覧ください!

寛政の改革でも同様に、年貢の徴収により力を入れたり、倹約令によって財政を安定させたりしました。

この時代は、飢饉(凶作によってコメが収穫できず、民衆の多くが飢え、苦しむこと)がたびたび起こっていましたので、そうした飢饉に見舞われた農村の復興が政策の中心となっていたのです。

寛政の改革は、享保の改革をモデルにして行われ、飢饉の復興を大きな目的とした

具体的には、

  • 凶作に備え、コメを備蓄させる囲米(かこいまい)を各大名に指示する
  • 町の人々にもお金を積み立てさせ、飢饉や災害時の備えとする七分積金を行わせる
  • 飢饉の際に、田畑を放置し逃げ出す農民が出ないように、資金援助を行う旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を出す

といったものが挙げられます。

そのほかにも松平定信は多くの政策を実施し、飢饉や災害があっても財政が安定する仕組みづくりに尽力したのです。

寛政の改革では、囲米、七分積金、旧里帰農令などの政策で、財政の安定を計った

寛政の改革による効果

このような寛政の改革が実際に行われると、松平定信の思惑通り、財政は安定します。

それに伴い、百姓や農民の生活も持ち直し、安定していったのです。

こうして財政を好転させた幕府や、松平定信の威厳はより高まりました。

寛政の改革は、財政を好転させ、民衆の生活も安定させた

しかし、財政を安定させた反面、民衆からは年貢の徴収や倹約令を厳しく行なっていましたから、それに息苦しさを感じた民衆も少しずつ現れ始めました。

将軍である徳川家斉は、民衆により自由を与えたいという考え方の持ち主であったため、松平定信とは意見が衝突してしまいました。

こうして、家斉と対立を深めた定信は老中をクビにされてしまったのです。

ストイックな定信の政治は、将軍徳川家斉に認められず、定信は老中の座を辞任

こうして寛政の改革はあっさりと終わりを迎え、徳川家斉による政治、『大御所時代』へと突入していくこととなります。

まとめ

  • 徳川吉宗の孫である松平定信は白河藩の藩主であったが、藩政の腕前が評価され、老中へ就任
  • 寛政の改革は、享保の改革をモデルにして行われ、飢饉の復興を大きな目的とした
  • 寛政の改革では、囲米、七分積金、旧里帰農令などの政策で、財政の安定を計った
  • 寛政の改革は、財政を好転させ、民衆の生活も安定させた
  • ストイックな定信の政治は、将軍徳川家斉に認められず、定信は老中の座を辞任