【生涯年表】伊能忠敬ってどんな人?年表で分かりやすく解説!

【生涯年表】伊能忠敬ってどんな人?年表で分かりやすく解説!

こんにちは!

日本地図を作ったことで有名な伊能忠敬

皆さんも一度は耳にしたことがあると思います。

今回は、伊能忠敬がどんな人生を送っていたのか、年表を使って詳しく解説していきます!

伊能忠敬の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1745年(0歳)上総国(千葉県)に生まれる。
1762年(17歳)伊能家に婿入りする。
1781年(36歳)村の名主になる。
1794年(49歳)家を長男に譲り隠居する。
1795年(50歳)江戸に出る。
高橋至時という天文学者に弟子入りする。
1800年(55歳)蝦夷(北海道)の地図を作る。
1801年(56歳)伊豆半島、東日本の東海岸部の地図を作る。
1802年(57歳)東北地方の日本海沿岸部の地図を作る。
1803年(58歳)東海地方、北陸地方の地図を二年かけて作る。
1805年(60歳)近畿地方、中国地方の地図を三年かけて作る。
1808年(63歳)四国地方の地図を作る。
1809年(64歳)九州南部の地図を二年かけて作る。
1811年(66歳)種子島屋久島、九州北部の地図を三年かけて作る。
1815年(70歳)伊豆諸島の地図、江戸の地図を二年かけて作る。
1818年(73歳)弟子たちに見守られながら亡くなる。
1821年弟子たちにより「大日本沿海輿地全図」が完成する。

この年表を見ると、伊能忠敬は地図が完成する前に亡くなっていることがわかります。

忠敬が作った地図は、生前弟子入りした高橋至時の息子たちによって完成されました。

伊能忠敬が行った測量とは?

伊能忠敬は当時、どのような方法で測量をし地図を作り上げたのでしょうか。

一番最初に測量した蝦夷での方法は、一定の歩幅になるような歩き方を身に着け、複数の人が同じ場所を歩いた歩数の平均値から距離を計算するというものでした。

あまり効率が良くなく、気が遠くなりそうな測定方法ですが、毎日40㎞を移動したと言われています。

蝦夷への滞在期間は117日にもおよび、帰宅後は測量データを元に3週間かけて地図を作成し完成させました。

そして、翌年の1801年には伊豆半島・東日本太平洋側の測量が始まりました。

この時は、蝦夷で用いた歩幅による測量ではなく、約180㎝ごとに印をつけた縄を使う方法に変更しました。

前回より楽になったかと思いきや、海岸線は複雑に入り組んだ地形が多かったり、時には断崖絶壁に縄を張っていく測量になったりと、苦労は続いたようです。

この測量に要した日数は230日でした。

様々な苦労や困難と向き合いながら測量を行うことは、精神的にも肉体的にも相当過酷でありました。

忠敬はここまでの測量から、子午線一度の距離を28.2里を導き出したと言われています。

忠敬の測量方法はとても過酷なものであった

過酷な測量の末に

東日本の海岸線測量が完結した第四次測量の後、忠敬は当初の目的であった地球の大きさを求める計算を始めました。

忠敬の恩師である高橋至時が持つオランダの天文学書の数値と照らし合わせ、その結果両方が一致することを確認し、二人で喜んだそうです。

ちなみに、第十次測量が終了するまでの忠敬が歩いた距離は4万㎞と言われており、それは地球1周分の距離と同じだったとされています。

当時の測量方法は、今のものとは比べ物にならないほど過酷でした。

様々な困難を乗り越えながら日本地図を完成させた忠敬は、とても芯の強い人だったことがわかります。

伊能忠敬は、「日本地図を始めて作った人」とは知られているものの、それが55歳を過ぎてから始められたことや、多くの苦労があった中での測量だったことはあまり知られていないようです。

当初の目的は「地球の大きさを求めること」だった

まとめ

いかがでしたか?

伊能忠敬はいろいろな苦難を乗り越え、日本地図を完成させたということがわかったと思います。

日本地図の始まりを知った上で、この国の地図をもう一度じっくり眺めてみませんか。

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  • 忠敬の測量方法はとても過酷なものであった
  • 当初の目的は「地球の大きさを求めること」だった