【生涯年表】徳川家康ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

【生涯年表】徳川家康ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

戦乱の世に天下統一を成し遂げた徳川家康

当ブログをご覧の皆様も、一度は耳にしたことがある名前だと思います。

この記事では、徳川家康の生涯を年表を使って分かりやすく解説していきます。

そして、家康のいくつかある死因の説についてもご紹介します!

ぜひ最後までご覧ください。

徳川家康の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1542年(0歳)三河(愛知県)で生まれる。
1548年(6歳)今川義元の人質になるために城を出て向かう途中、尾張(愛知県)の織田信秀に連れ去られ、織田家の人質となる。
1549年(7歳)駿府(静岡)の今川家の人質となる。
1557年(15歳)今川義元の姪である瀬名と結婚する。
1558年(16歳)寺部城主・鈴木日向守を責めた。
1559年(17歳)駿府にて築山殿との間に信康を授かる。
1560年(18歳)亀姫を授かる。
1561年(19歳)今川義元桶狭間の戦い織田信長の奇襲に遭い死亡。
それと共に家康の人質生活も終了する。
1562年(20歳)織田信長と同盟を組む。
1563年(21歳)元家」から「家康」に改名する。
1566年(24歳)東三河・奥三河を平定し三河国を統一。
1570年
(28歳)
姉川の戦いに参戦。
1572年
(30歳)
一言坂の戦い二俣城の戦い三方ヶ原の戦いに参戦。
1575年(33歳)長篠の戦いに参戦。
1579年(37歳)武田家への内通疑惑がかけられた築山殿を殺害、信康を切腹させた。
1584年(42歳)小牧・長久手の戦い
1590年(48歳)江戸城に入城
1600年(58歳)関ヶ原の戦い
1603年(61歳)征夷大将軍となる
1614年(72歳)大坂冬の陣
1615年(73歳)大坂夏の陣
1616年(74歳)病死
死後、東照大権現の神号を与えられ神となった。

徳川家康の死因について

江戸幕府を開いた徳川家康は、75歳でこの世を去りました。

当時とすれば、かなり長生きだったと思われます。

家康はかなり健康に気を遣う人だったと言われており、だからこそ75歳まで生きることができたのではないでしょうか。

ここでは、その家康の死因について見て行きたいと思います!

天ぷらによる死因説

家康は健康にこだわりの強い人でしたが、新しいものに興味を示す性格だったようです。

ある日、狩りに出かけた先で出された鯛の天ぷらを食べたところ、美味しすぎるあまりたくさんお代わりをしてしまったそうです。

後日、腹痛を訴え始めその3か月後には亡くなってしまったのです。

しかし、天ぷらを食べて食中毒を起こしたのなら、亡くなるまでに3か月もかかったのは不思議ですよね。

よって、この説の可能性はかなり低いのではないでしょうか。

鯛の天ぷらで食中毒になった説はあるが、可能性は低い

真田幸村に討たれた説

大坂夏の陣で、真田幸村家康の本陣に二度攻めています。

史実としては、二度とも失敗し幸村は討ち取られてしまいます。

しかしこのとき、家康は幸村に討たれていたのではないかという説もあるようです。

では、その後江戸幕府を開いたのは誰なのか疑問ですよね。

家康には影武者がおり、その影武者が家康の名を名乗り跡を継いだと言われています。

その人物は小笠原秀政だったそうです。

堺の南宗寺には家康の墓と思われるものがあり、かなり信ぴょう性が高いとされています。

家康には影武者がおり、大坂夏の陣で討ち取られていた説がある

胃がん死説

一番もっともらしいのが、家康は胃がんを患っていたという説です。

天ぷら事件で倒れた後、家康は腹部にしこりのようなものがあり、吐き気なども伴う症状に見舞われたようです。

このことから、癌だったのではないかと言われています。

徐々に痩せ衰えていく一方、家康は自分の煎じた薬を服用し、医者の言うことは全く聞かなかったそうです。

家康は健康オタクが故に、病で亡くなった説がある

まとめ

いかがでしたか?

家康の死因について様々な説がありますが、現代を生きる私たちには真実を知ることはできません。

しかし、家康の生い立ちを知ることで人柄も見えてくるのではないでしょうか。

当ブログでは、他の歴史人物についてもまとめていますので、ぜひご覧ください!

  • 鯛の天ぷらで食中毒になった説はあるが、可能性は低い
  • 家康には影武者がおり、大坂夏の陣で討ち取られていた説がある
  • 家康は健康オタクが故に、病で亡くなった説がある