【生涯年表】坂本龍馬ってどんな人?年表を使って分かりやすく解説!
こんにちは!
皆さんは、坂本龍馬という人物をご存知ですか?
小説や大河ドラマでも取り上げられており、歴史の中でも人気の高い人物です。
今回は、坂本龍馬について年表を使って詳しく解説していきます!
坂本龍馬の生涯年表
西暦(年齢) | 出来事 |
---|---|
1835年(0歳) | 土佐国(高知県)で生まれる。 |
1853年(19歳) | 剣術を学ぶため江戸へ上る。 ペリーの「黒船」がやって来る。 |
1861年(27歳) | 武市半平太の「土佐勤王党」に入党する。 |
1862年(28歳) | 土佐藩から脱藩する。 江戸へ上り勝海舟に弟子入りする。 |
1863年(29歳) | 脱藩の罪を許される。 「神戸海軍操練所」の塾頭に就任する。 帰国の命令に従わず、再び脱藩。 |
1865年(31歳) | 薩摩藩の援助で、長崎に「亀山社中」を設立。 |
1866年(32歳) | 薩摩藩と長州藩の仲立ちをし、薩長同盟が結ばれる。 寺田屋で幕府の役人に襲撃されるが難を逃れる。 |
1867年(33歳) | 土佐藩の後藤象二郎と会談し、大政奉還を提唱する。 「船中八策」を考える。 大政奉還後、「新官制案」「新政府綱領八策」を作る。 「亀山社中」を「海援隊」と改名し隊長になる。 11月15日 死没。 京都近江屋で刺客の襲撃に遭い暗殺される。 |
33歳という若さで生涯を終えた坂本龍馬ですが、その一生の中で明治時代の基礎となる業績を数多く残しています。
龍馬の業績とはどんなものだったのでしょうか。
ここからは、年表にもある龍馬の業績を紹介していきます。
薩長同盟
当時、薩摩藩と長州藩は不仲状態にありました。
1864年に京都で行われた禁門の変では、戦争を行っているほどです。
その2つの藩を結び付け、明治維新への最大の勢力としたのが薩長同盟です。
これは、龍馬の最大の偉業と言われています。
龍馬の最大の偉業は薩長同盟であった
大政奉還
大政奉還とは、将軍職を朝廷に返すことです。
龍馬が土佐藩の後藤象二郎に提案し、土佐藩から徳川慶喜に提案されました。
薩摩藩や長州藩が江戸幕府に良い印象を持っていなかったのに対し、土佐藩は江戸幕府に恩があったので、新国家を必要としつつも幕府とは戦うことができない立場にありました。
そのため、龍馬の提案は受け入れられたのです。
徳川慶喜はこれに応じて大政奉還を行い、薩摩藩や長州藩との戦争を回避しました。
最初、大政奉還を提案したのは龍馬であった
船中八策
船中八策とは、坂本龍馬がまとめた明治維新の基本方針です。
船の中で考え、それが8項目で構成されることから、この名がつきました。
この基本方針は、明治政府の示した五箇条の御誓文によって行われたことが多く含まれていました。
龍馬は新勢力を作ると共に旧勢力も守り、平和的に新しい国を作ろうとした
坂本龍馬に関するエピソード
龍馬には、勝海舟という師匠がいました。
勝海舟は当時、軍艦奉行並という役職についていました。
尊王攘夷派からは開国派とみなされ、常に暗殺の危機に晒されていたと言います。
しかし勝は、海防を強化して外国に対抗できる力をつけようと考えました。
龍馬は勝海舟を斬りに行ったものの、逆に説得されてしまい、弟子入りをしたと言われています。
この話は、勝海舟の「追賛一話」に記されています。
ですがこの話は、勝の思い違いではないかと言われているのです。
また勝海舟には、大言壮語なところがあったそうなので、勝手に話を大きくしたのではないかともいわれています。
龍馬は勝海舟を斬りに行ったのではなく、海軍について話を聞きに行ったと考えられています。
ですが、最終的に勝海舟が龍馬を気に入り、勝の弟子となったことは事実です。
龍馬が勝海舟の弟子になったことは事実だが、その過程は明確でない
まとめ
いかがでしたか?
坂本龍馬はいくつもの偉業を成し遂げたということがわかりましたね。
大河ドラマや小説でも取り上げられるほどですから、更に調べていくと新たな発見がありそうです。
また、当ブログでは他にも坂本龍馬に関する記事を更新しておりますので、是非ご覧ください!
- 龍馬の最大の偉業は薩長同盟であった
- 最初、大政奉還を提案したのは龍馬であった
- 龍馬は新勢力を作ると共に旧勢力も守り、平和的に新しい国を作ろうとした
- 龍馬が勝海舟の弟子になったことは事実だが、その過程は明確でない
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