【松下村塾】吉田松陰とはどんな人?その生涯をわかりやすく解説!
こんにちは!
江戸時代末期に活躍した志士であり、優れた教育者でもある吉田松陰(よしだしょういん)。
吉田松陰が開いた松下村塾(しょうかそんじゅく)という塾では、後の初代内閣総理大臣である伊藤博文(いとうひろぶみ)や高杉晋作(たかすぎしんさく)、木戸孝允(きどたかよし)など幕末維新や明治新政府で活躍した志士を育てました。
現代でもなお、教育者として数々の名言や教育論が注目されており、まさに教育者の鏡出会った人物です。
そんな吉田松陰がどのような生涯を歩み、どのような思想を抱いていたのか、わかりやすくまとめていきます!
吉田松陰の生い立ち
天才と呼ばれた少年時代
吉田松陰は1830年、長州藩士である杉百合之助の次男として生まれます。
元々松蔭は、暇さえあれば本を読むという勤勉な性格でありましたが、4歳の頃に叔父である吉田大助の養子に入るとその才能が開花。
わずか9歳で藩校の明倫館(めいりんかん)にて先生として教鞭を振るいました。
11歳の時には、藩主である毛利敬親に対し、『武教全書』という講義を行い、『天才』と称されるほど目をかけられるようになりました。
その後、19歳まで明倫館や叔父の開いていた松下村塾にて教鞭を振るいますが、20歳になると九州や江戸へ遊学します。
わずか9歳で先生となった吉田松陰は天才と呼ばれ注目を集めることとなる
遊学によりたくさんのことを学んでいた松蔭でしたが、25歳の時に浦賀でアメリカのペリー提督率いる黒船の来航を目撃します。
この黒船の来航を機に、松蔭は大きく考え方を改めるのです。
黒船来航
黒船の来航に衝撃を受けた松蔭は、国防意識に強い危機感を抱くとともに、外国で学ぶ必要性に迫られます。
浦賀での2回目の黒船来航を待ち、松蔭は黒船に乗っての密航を計画するのです。
小舟に乗って黒船に近づいた松蔭は、乗組員に密行させてほしい旨を伝えますが、ペリー提督の許可が下りず、失敗に終わります。
これにより幕府から罰として生まれ故郷である萩(現在の山口県萩市)に送り返され、投獄(牢屋に入れられること)されてしまいました。
黒船に乗り密航を企てるが失敗に終わり、投獄される
松下村塾での教育
27歳になると牢屋から出ることが許可された松蔭。
牢屋から出ると叔父が経営していた松下村塾を引継ぎ、教育者としての活動を再開させました。
松蔭は、松下村塾で孟子(中国の儒学者)の授業を行い、評判を集めました。
わずか3年程の松下村塾での授業でしたが、この3年間で高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋をはじめとする、多くの志士を育成しました。
わずか3年ながら、松下村塾にて幕末・維新で活躍する多くの志士を育成した
安政の大獄
松蔭が30歳になると、大老として幕府の実権を握っていた井伊直弼(いいなおすけ)が天皇の許可を受けないまま、アメリカと『日米通商条約』を結んでしまいました。
この『日米通商条約』はアメリカが日本に開国を迫った時に結ばれたもので、一方的にアメリカ有利な内容でした。
『不平等条約』と呼ばれる程、一方的な内容であったこの条約ですが、井伊直弼はペリーの圧力に耐えきれずに合意してしまいます。
当然、井伊直弼の断行に納得できない志士が現れ、反発の声を挙げ始めました。
こうして、幕府の政治に反する思想を持った志士たちを『尊王攘夷派(そんのうじょういは)』と呼びます。
吉田松陰も尊王攘夷派の志士の一人であり、幕府や井伊直弼を激しく批判しました。
井伊直弼は自らに反対する声をあげた志士たちを理不尽に一斉処刑しました。
この出来事が『安政の大獄』というものです。
この安政の大獄によって吉田松陰も処刑されてしまい、30年の短い生涯に幕を下ろすこととなってしまいました。
井伊直弼の安政の大獄により、吉田松陰は30歳の若さで処刑されてしまう
安政の大獄のその後についてはこちら!
吉田松陰の名言
30歳の若さで生涯を閉じた吉田松陰ですが、現代でもなお、吉田松陰の言葉は教育者の中に深く残り続けています。
ここでは、数ある松蔭先生の名言の中から有名なものをいくつか抜粋して紹介していきます。
至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり
誠意を尽くして接すれば、人は必ず心を動かされるでしょう。という意味のこちらの言葉。
松蔭先生は、知識や才能よりも、『誠の心』を重んじる思想の持ち主でした。
一生懸命、誠意を持って物事に取り組む大事さを説いた名言です。
親思う 心にまさる親心 今日のおとづれ 何と聞くらん
こちらは松蔭先生が安政の大獄により処刑される直前に詠んだ句です。
『私が親のことを思う以上に、親は私のことを思ってくれている。親は今日の出来事を聞いて、どのように思うだろうか』という内容になっています。
死の直前でも親心を強く感じる松蔭先生の素晴らしさが読み取れる句ですね。
夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、 計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。 故に、夢なき者に成功なし。
最後はこちらの名言。
成功へと向けた心の持ち方を詠んだ句ですが、結論として、夢を持つことができなければ、成功することはできない、と結んでいます。
尊王攘夷という夢を最後まで追い続けた松蔭先生だからこそ詠める一句となっています。
松蔭先生は夢半ばにして死すこととなってしまいましたが、松下村塾の門下生たちの活躍によって大政奉還がなされました。
現代の教育にも通ずる吉田松陰の教えから、私たちも学んでいけたら素晴らしいですね。
まとめ
- わずか9歳で先生となった吉田松陰は天才と呼ばれ注目を集めることとなる
- 黒船に乗り密航を企てるが失敗に終わり、投獄される
- わずか3年ながら、松下村塾にて幕末・維新で活躍する多くの志士を育成した
- 井伊直弼の安政の大獄により、吉田松陰は30歳の若さで処刑されてしまう
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