【生涯年表】宮本武蔵ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

【生涯年表】宮本武蔵ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

宮本武蔵といえば、日本で最も有名な侍ではないでしょうか。

巌流島の決闘」や「五輪書」など、言葉は聞いたことあるけど詳しくは分からない…という方もいると思います。

ここでは、宮本武蔵の生涯について年表で解説し、エピソード等もご紹介していきます!

宮本武蔵の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1584年(0歳)播磨国(兵庫県)もしくは美作国(岡山県)で生まれたとされる。
1596年(12歳)五輪書によると、新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利したとされる。
1599年(15歳)上に同じく五輪書より、但馬国(兵庫県北部)の秋山某に勝利。
1600年(16歳)関ヶ原の戦いに参戦。黒田官兵衛に従い、九州で戦ったと考えられている。
1604年(20歳)京都の吉岡一門と戦い勝利したとされる。
1612年(28歳)巌流島佐々木小次郎と戦い勝利した。
(1602年の説もある)
1614年(30歳)大坂の陣にて、徳川方の水野勝成として参戦する。
1626年(42歳)播磨国の地侍の次男を養子に迎え、宮本伊織として小笠原忠真に仕えさせる。
1638年(54歳)伊織とともに、島原の乱に参戦する。
1640年(56歳)熊本城主である細川忠利に客分として招かれる。
1643年(59歳)熊本の霊巌洞にて、五輪書の執筆を始める。
1645年(61歳)熊本城近くの千葉城の屋敷で亡くなる。

宮本武蔵の生涯は養子、宮本伊織による資料にまとめられているのですが、後に様々な脚色が加えられ、正しいものがどれなのか見分けがつかないものも少なくありません。

ここからは、宮本武蔵に関するエピソードを紹介していきます!

五輪書について

宮本武蔵といえば、「五輪書」と思う方も多いかもしれません。

五輪書」は、武蔵が兵法の極意を記した書物です。

「地・水・火・風・空」の全5巻で構成されていて、それぞれ次のような内容です。

地の巻:武蔵の生涯と兵法

水の巻:剣の持ち方や構え方など、実際の剣術

火の巻:戦いにおいての心構えなど

風の巻:他の流派のこと

空の巻:兵法の本質

この「五輪書」は様々な言語に訳されて、世界で出版されています。

また、オリンピックを「五輪」と言いますが、これは「五輪書」の書名を由来として、読売新聞社の記者が考案した訳語です。

五輪書は全5巻で構成され、様々な言語に訳されている。

巌流島の戦い

巌流島の戦いにまつわるエピソードもいくつかありますが、ここでは2つ紹介します!

まずは1つ目です。

武蔵は2時間以上も決闘に遅刻して、佐々木小次郎を怒らせたというのが「巌流島の戦い」の定説です。

しかし、これは後に描かれた創作で、武蔵は遅刻していなかったという説があります。

では、なぜ「遅刻説」が定説となってしまったかというと、江戸時代の歌舞伎が「遅刻説」を取り入れたためではないかと言われています。

だとしたら、武蔵にとってはいい迷惑ですよね。

巌流島の戦いの遅刻説は創作だった可能性がある

次に2つ目です。

実は、小次郎を殺したのは武蔵の弟子だったという説があります。

1対1の決闘という約束だったため、小次郎は1人で巌流島に向かいました。

しかし、武蔵は弟子数人を連れていき、隠れているよう命じました。

そして決闘は武蔵の勝利で終わります。しばらくして意識を取り戻した小次郎を、武蔵の弟子たちが袋叩きにしたのです。

これが本当だったら、武蔵はとても卑怯者ですね。

しかし残念なことに、この説が1番信ぴょう性があると言われています。

たしかに、武蔵は木刀で戦ったと言われているので、即死ではなく、小次郎が後に意識を取り戻したと言われても不思議ではありません。

武蔵は小次郎との約束を破り、複数人で戦いに挑んだ

まとめ

いかがでしたか?

様々な説がありますが、それほど武蔵は有名な強い侍だったということですね。

他の説についても深く知ることで、武蔵の人柄が明らかになってくるかもしれません。

当ブログでは、他の歴史人物についてもまとめていますので、ぜひご覧ください!

  • 五輪書は全5巻で構成され、様々な言語で訳されている
  • 巌流島の戦いの「遅刻説」は創作だった可能性がある
  • 武蔵は小次郎との約束を破り、複数人で戦いに挑んだ