【江戸三大改革】水野忠邦による天保の改革とは?
こんにちは!
江戸三大改革といえば、徳川吉宗による『享保の改革』、
松平定信(まつだいらさだのぶ)による『寛政の改革』、
そして、水野忠邦(みずのただくに)による『天保の改革』です。
いずれも似たような政策が多く混同しやすいですが、ここでは12代将軍徳川家慶の時代に水野忠邦が行なった『天保の改革』についてわかりやすく解説していきます!
天保の改革が行われた背景
11代徳川家斉による50年もの政権のなかで行われた『寛政の改革』。
寛政の改革について、詳しくはこちらの記事をご覧ください!
松平定信の寛政の改革によって財政を引き締め、江戸幕府は財政を安定させます。
しかし、厳しい年貢の徴収や倹約令に息苦しさを感じた民衆と、気楽な政治を望んだ将軍徳川家斉によって、老中の松平定信は幕府を追い出されてしまいます。
その後は『大御所時代』と呼ばれる将軍徳川家斉による政治が行われます。
この大御所時代では、寛政の改革時代よりも贅沢な金使いが目立ちます。
民衆も同様で、財政が徐々に緩んでいってしまったのです。
徳川家斉による政治によって財政が不安定に
こうした徳川家斉による政治が終わりを告げ、徳川家慶(いえよし)が12代将軍の座につくと、老中の水野忠邦に改革を命じます。
命を受けた水野忠邦は『享保の改革』と『寛政の改革』を参考に財政の立て直しを目指すのです。
徳川家慶の命により、水野忠邦が改革を実施
天保の改革の具体的な政策
水野忠邦による改革は『享保の改革』と『寛政の改革』を参考にして行われました。
そんな天保の改革の経済政策の中心は倹約令と株仲間の解散でした。
この時代では株仲間という組織が組まれ、商品が独占的に販売されていました。
そのことによって価格が法外に釣り上げられていたのです。
こうした株仲間を解散させることによって価格の吊り上げを無くそうと考えた水野忠邦は、株仲間を解散させ、物価を下げようと試みました。
しかし、実際に株仲間が解散すると、これまでスムーズに行われていた物流が滞り、逆に物価が上がってしまう結果となったのです。
物価を下げることを目的とした株仲間の解散は逆効果に
人返しの法
そのほかには、『人返しの法』を施行し、江戸へと流れてきていた農民を地元へ返し、耕作を進めるよう指示しました。
この『人返しの法』は寛政の改革における『旧里帰農令』を真似したもので、内容的にはほとんど同じものです。
『人返しの法』により農民を故郷へ返し、農作物の生産に集中させた
上知令
その後、水野忠邦は、天保の改革の中心的政策である『上知令(あげちれい)』に取りかかりました。
この上知令は江戸、大坂付近の大名に対して出されたもので、『あなたの治めている領地を幕府の領地にしたいのでください』といった内容でした。
外国から攻め込まれた際、しっかりと応戦できるように、江戸、大坂を固めておきたいという水野忠邦の考えによる政策でした。
忠邦は上知令により江戸、大坂を幕府直轄の領地にしようとした
しかし、この政策が出された大名や旗本には、代わりに別の領地が用意されましたにも関わらず、当然のように大名たちは反発しました。
そうして結局、上知令は実行されることなく終わってしまったのです。
大名の反感を集めた『上知令』は実行されることなく終わってしまう
この上知令が失敗に終わってしまったことから、幕府の力が弱まってきたことが伺えます。
ここからさらに幕府は衰退の一途を辿っていくのでした。
まとめ
- 徳川家斉による政治によって財政が不安定に
- 徳川家慶の命により、水野忠邦が改革を実施
- 物価を下げることを目的とし行なった株仲間の解散は逆効果に
- 『人返しの法』により農民を故郷へ返し、農作物の生産に集中させた
- 忠邦は上知令により江戸、大坂を幕府直轄の領地にしようとした
- 大名の反感を集めた『上知令』は実行されることなく終わってしまう
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