川中島の戦いって何?
時は戦国時代。
武田信玄と上杉謙信によって5度にわたり行われた『川中島の戦い』。
『甲斐の虎』と呼ばれた武田信玄と『越語の龍』と呼ばれた上杉謙信のライバル関係は現在も非常にファンが多く人気があります。
そんな川中島の戦いをわかりやすく解説していきます!
武田信玄ってどんな人?
武田信玄は、大永元年(1521年)、武田信虎の長男として生まれました。
信玄が21歳の時、父である信虎を追い出し、甲斐の国(現在の山梨県)の国主となると、中部地方を中心に支配を広げます。
信濃、諏訪家に侵攻し、信濃のほとんどを治めたとされています。
『甲州法度之次第』という分国法を制定したり、金山開発を行ったりと戦だけでなく、政治的にも優れた武将だったことがわかっています。
数々の戦や政治で活躍を重ねた戦国武将ですが、53歳にして持病の悪化により亡くなってしまいました。
武田信玄は甲斐の国に生まれ、中部地方を中心に支配を強めた
上杉謙信ってどんな人?
享禄3年(1530年)、長尾為景の四男として生まれました。
幼い頃は『長尾景虎』と名乗っていました。
長尾家の家督を継ぎましたが、関東領であった上杉憲政から家督を譲り受けたことにより、上杉政虎と改名しました。
上杉謙信といえば、その戦の戦の強さは有名で、生涯でおよそ70戦して1敗のみしか喫していないという逸話があるほどです。
それほどの武運を誇った上杉謙信ですが、49歳の1578年、遠征準備中に病死してしまいました。
上杉謙信は生涯70戦以上し、そのほとんどで勝利している
川中島の戦いが起こった背景
上記の武田信玄と上杉謙信が戦った『川中島の戦い』ですが、合計5回、およそ12年にわたって行われていたとされています。
川中島の戦いは、北信濃(長野県北部)の占拠を目指す武田信玄と、同じく北信濃を奪回したい上杉謙信による戦いです。
- 第一次合戦(布施の戦い):天文22年
- 第二次合戦(犀川の戦い):天文24年
- 第三次合戦(上野原の戦い):弘治3年
- 第四次合戦(八幡原の戦い):永禄4年
- 第五次合戦(塩崎の対陣):永禄7年
北信濃の地を巡って争った『川中島の戦い』は約12年、5度にわたって繰り広げられた
どっちが勝ったの?
長きに渡る川中島の戦いは、勝者がはっきりしておらず、現在でも様々な議論がなされています。
第五次合戦が終結した際に、結果的に北信濃の領土を得たのは武田軍でした。
上杉軍は戦場に留まり続けた武田軍を尻目に戦場を後にしたのです。
しかし、上杉軍は武田軍と比較し、戦死者の数が1000人以上少ないという記録も残っています。
両者の戦に対する考え方の違いとも取れる結果となりましたが、皆さんはどちらの軍を勝者にするべきだと思いますか?
武田軍は最終的に領土を得たが、上杉軍は戦死者の数を大きく抑えた
まとめ
- 武田信玄は甲斐の国に生まれ、中部地方を中心に支配を強めた
- 上杉謙信は生涯70戦以上し、そのほとんどで勝利している
- 北信濃の地を巡って争った『川中島の戦い』は約12年、5度にわたって繰り広げられた
- 武田軍は最終的に領土を得たが、上杉軍は戦死者の数を大きく抑えた
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