南北朝時代ってどんな時代?
こんにちは!
室町時代初期、足利尊氏やその孫である足利義満が室町幕府を成立させます。
室町幕府が成立する前、都は『南朝』、『北朝』に分かれ、激しい戦乱が繰り広げられるのです。
ここでは、そんな『南北朝時代』についてわかりやすく解説していきます!
南北朝とは?
1333年、後醍醐天皇の打ち出した『建武の新政』により民衆の混乱が深まります。
この建武の新政による混乱は、鎌倉幕府の復興を狙う者にとっては絶好の好機となるのです。
鎌倉時代に執権として大きな権力を握った北条時行は、鎌倉幕府の再興のために挙兵。
一時的に鎌倉を占拠しました。
この乱は『中先代の乱(なかせんだいのらん)』と呼ばれています。
しかし、足利尊氏は鎌倉に向かい、この乱の鎮圧に動きました。
見事、尊氏は北条時行を倒し、一気に後醍醐天皇に反する動きを見せます。
建武の新政は武士たちにとって不遇の政策でしたから、後醍醐天皇に不満を抱えていた武士たちも尊氏を押し立てたのです。
北朝
そのままの勢いで京都を支配した尊氏は持明院統の天皇、光明天皇(こうみょうてんのう)を立て、『北朝』という朝廷を形成します。
北朝のある京都では、尊氏が『建武式目』を発令すると同時に、征夷大将軍となり、新しい幕府を起こします。
尊氏は、北朝で新たな幕府を開く
南朝
本来の天皇である後醍醐天皇は京都を追われ、吉野という地に逃げ帰ります。
また、多くの武士が足利尊氏を推す一方で、楠木正成(くすのきまさしげ)や新田義貞(にったよしさだ)など、一部の武士は天皇の側につきました。
後醍醐天皇はこうした武士たちを従えて、吉野で体制を整えるのです。
この吉野での後醍醐天皇による政権を『南朝』と呼んでいます。
『北朝』に対抗すべく、後醍醐天皇は吉野に『南朝』を構える
観応の擾乱
足利尊氏、そして尊氏の擁立した光明天皇を中心とした『北朝』。
後醍醐天皇を中心とした『南朝』。
この北朝と南朝の60年に渡る長い戦いが『南北朝の戦い』なのです。
南北朝の戦いは60年間にわたって繰り広げられた
この長い戦いの中で、南朝では主力の武将を序盤で亡くし、中心に立っていた後醍醐天皇もすぐに亡くなってしまいました。
対する北朝も内部での争いが勃発し、なかなか一つにまとまりきることができませんでした。
尊氏の弟に当たる足利直義(あしかがただよし)と尊氏の補佐にあたる高師直(こうのもろなお)の間で争いが激化し、観応の擾乱(かんのうのじょうらん)と呼ばれる大きな内部抗争へと発展していったのです。
北朝では、足利直義と高師直との間で観応の擾乱が勃発
このように南北朝のいずれも勝ちきれなかったことが60年という長い期間を要した理由とされています。
南北朝の統一
こうして60年間続いた南北朝の争いでしたが、足利尊氏の孫にあたる足利義満により南北朝の統一に向けた動きが加速します。
南朝は主要な武将を欠き、だんだんと力を失いかけていたため、義満の統一の呼びかけに応じざるを得なかったのです。
本来の天皇家である南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が北朝の後小松(ごこまつ)天皇に皇位を継承することで、南北朝の統一が完成しました。
これに伴い、長きにわたった南北朝の争乱も幕を閉じたのです。
足利義満の呼びかけにより、南北朝が統一し争乱も終結した
まとめ
- 北条時行は鎌倉幕府再興を目指し挙兵(中先代の乱)
- 後醍醐天皇に不満を抱えた多くの武士が足利尊氏を推す
- 尊氏は、北朝で新たな幕府を開く
- 『北朝』に対抗すべく、後醍醐天皇は吉野に『南朝』を構える
- 南北朝の戦いは60年間にわたって繰り広げられた
- 足利直義と高師直との間で観応の擾乱が勃発
- 足利義満の呼びかけにより、南北朝が統一し争乱も終結した
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