【生涯年表】斎藤道三ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

【生涯年表】斎藤道三ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

皆さんは斎藤道三という人物をご存知ですか?

戦国時代に活躍した武将ということは知っているけど、詳しくは知らないという方も多いのではないでしょうか。

ここでは、斎藤道三の生涯を年表で解説していきます!

斎藤道三の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1494年(1歳)山城国・乙訓郡・西岡で生まれる。
幼名は「峰丸」。
1521年(28歳)長井長弘に士官。
1527年(34歳)美濃国の守護である「土岐頼武」を
美濃国から追放する。
1530年(37歳)主君「長井長弘」を殺害する。
1538年(45歳)美濃国の守護代「斎藤利良」が病死。
斎藤家の名跡を継ぎ、「斎藤利政」と改名。
1539年(46歳)居城「稲葉山城」を改築し、
難攻不落の名城へ造り変える。
1541年(48歳)道三土岐頼芸の弟である土岐頼満を毒殺。
1547年(54歳)加納口の戦い
1548年(55歳)娘である「帰蝶」を織田信長に嫁がせる。
1552年(59歳)美濃を統一
1554年(61歳)鷺山城で隠居。
出家して「斎藤道三」と名乗る。
1555年(62歳)斎藤義龍が、父である道三に対して挙兵。
1556年(63歳)長良川の戦い
斎藤義龍斎藤道三が開戦。
斎藤道三は戦死する。

斎藤道三の家族構成

斎藤道三には数多くの子どもたちがいます。

その中でも特に有名なのは、「帰蝶」と「斎藤義龍」です。

帰蝶は、道三の戦略で織田信長に嫁がされたとされており、とても芯の強い女性だったのではないかと言われています。

斎藤義龍は、道三の息子であり、道三を倒した人物でもあります。

義龍の他に、「孫四郎」と「喜平次」という二人の息子がいたとされています。

しかし、義龍道三に対して謀判を起こした際に、この二人の息子たちは殺害されてしまいました。

そして、道三の妻といえば、明智光秀の叔母と言われている「小見の方」が有名です。

明智光秀の父の妹である小見の方は、帰蝶の母親です。

つまり、光秀帰蝶はいとこ同士であることがわかります。

この縁があり、光秀は後に帰蝶の口添えで織田信長に仕えることとなったと考えられています。

道三の息子は義龍だけでなく、他に二人いた

道三が息子の義龍に殺された理由

道三が嫡男である義龍と対立したのは、義龍道三の実の子ではなく、実子の孫四郎喜平次らを偏愛したからだと言われています。

義龍の母は、道三の側室・深芳野です。

彼女は、元々道三の君主だった土岐頼芸の愛妾でした。

のちに頼芸は彼女を道三に与えましたが、道三はその時、彼女が既に頼芸の子を懐妊していたのを承知で側室にしたと言われています。

しかし、正室との実子が生まれそちらを可愛がり、義龍と対立したのでしょう。

彼らの親子関係が頼芸の旧家臣たちも承知の事実だったとすれば、長良川の戦いで多くの家臣たちが道三を嫌い、義龍を味方にしたことも理解できますね。

彼らの本来の君主・頼芸を追い出した道三ではなく、頼芸の息子である義龍を助けたかったわけです。

そして義龍道三を討ったのでした。

義龍は、道三の実の息子ではなかった

美濃のマムシと呼ばれた武将

元々商人だった道三は、人々の心理を突く手段や器用さを持ち、一念発起して武士に転身するという行動力を持ち合わせていました。

しかし道三は、武士になったきっかけの恩師である長井長政を殺害するなど、次々と自分が仕えていた君主を自分の出世のために倒し、のし上がっていきました。

野望のためなら親をも食い殺すと、親の腹を食いちぎって生まれてくるマムシに例えられたのです。

道三は恩師である人物を倒し出世していった

まとめ

いかがでしたか?

斎藤道三が日本の歴史に残る有名な人物である理由がお分かり頂けたと思います。

これを機に、斎藤道三について更に詳しく調べてみてはいかがでしょうか。

当ブログでは、他の歴史人物についてもまとめています。

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  • 義龍は、道三の実の息子ではなかった
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