【生涯年表】伊達政宗ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

【生涯年表】伊達政宗ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

仙台を代表する武将の伊達政宗

名前を聞いたことはあっても、その生涯を詳しく知っている人は少ないのではないでしょうか?

ここでは、伊達政宗の生涯について年表でわかりやすくまとめていきます!

伊達政宗の生涯年表

西暦出来事
1567年出羽国米沢城にて生まれる。
幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。
1571年天然痘を患い、右目を失明する。
1577年元服し、伊達藤次郎政宗と名を改める。
1579年陸奥国磐城三春城城主、田村清顕の娘「愛姫」と結婚する。
1584年父である伊達輝宗が隠居。
家督を継いだ政宗伊達家17代目当主となる。
1585年小手森城なで斬り事件、粟之巣の変、人取橋の戦いに出陣。
1588年大崎合戦に出陣し、対立していた出羽国最上義光と和睦。
1589年摺上原の戦いで蘆名義広を破り、奥州南部を平定。
これにより奥州でほぼ敵なし状態となり、奥州に114万石を領する覇者となる。
1590年豊臣秀吉、小田原征伐を行う。
政宗秀吉の元へ馳せ参じ、以降秀吉の配下に下る。
1592年文禄の役に出陣する。
派手な格好をして参戦し、「伊達者」と呼ばれるようになる。
1597年豊臣秀吉が切腹。
秀次と親しかった政宗にも謀反の疑いがかかる。
1600年関ヶ原の戦いが勃発する。
東軍に味方した政宗は、上杉家家老・直江兼続と戦う。
1601年仙台城を築城し、初代仙台藩主に就任する。
1614年大阪冬の陣に出陣する。
1615年大阪夏の陣に出陣する。
1636年腹膜炎、あるいは食道癌が原因で亡くなる。

目につけている眼帯

大河ドラマやゲームでよく見る伊達政宗は、眼帯をつけているイメージがありますよね。

この政宗の眼帯について、少し詳しく解説していきます。

年表にもあるように、政宗は4歳の頃に天然痘という病気により右目を失明しました。

しかし、政宗がその失明した右目を隠すために眼帯をつけていたという記録は残っていないのです。

つまり、眼帯姿の伊達政宗は後世の人々が作り出したものと言えるでしょう。

ちなみに、失明してしまった右目を隠すために布を巻いていたという説もあります。

伊達政宗の眼帯姿は二次創作だった

「独眼竜」というあだ名

「独眼竜 伊達政宗」という政宗のあだ名を、皆さんも一度は耳にしたことがあると思います。

実はこのあだ名は、中国の李克用(りこくよう)という武将につけられたものであり、政宗固有のものではありません。

江戸時代の歴史学者である頼山陽(らいざんよう)という人物が、政宗に「独眼竜」という言葉を用いたことがきっかけで「政宗=独眼竜」のイメージが定着したようです。

「独眼竜」は政宗固有のあだ名ではない

隻眼であること

前述した通り、伊達政宗は幼い頃から片目しか見えていない状態でした。

皆さん、実際に片目を瞑ってみてください。

とても見えにくいですし疲れますよね。

政宗はそんな状況でも幾多の戦場に立ち、戦い続けたのです。

隻眼では、敵と遭遇したときにかなり不利だと思われます。

しかし、政宗はそのハンデがないかのように振る舞い、果敢に戦いました。

「片目が見えなくても戦える」ということを証明しようとしていたのかもしれませんね。

ハンデを負いながらも、果敢に戦った

まとめ

いかがでしたでしょうか?

伊達政宗の年表を読み解いていくと、政宗の生き方や考え方も見えて来ると共に、意外な事実もあるので面白いですよね。

より詳しく伊達政宗について調べることで、歴史上の様々な出来事の背景や、他の人物との関係についても深く知ることができるかもしれませんね。

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  • 伊達政宗の眼帯は、後世の人々が創作した
  • 「独眼竜」は政宗固有のあだ名ではない
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