【明智光秀】光秀は生きていた?明智光秀=天海説を検証!

【明智光秀】光秀は生きていた?明智光秀=天海説を検証!

こんにちは!

日本の歴史上で最大のミステリーとも言われる本能寺の変

その本能寺の変を起こした明智光秀は2020年NHK大河ドラマ『麒麟が来る』の主人公に抜擢されるなど、近年注目が集まっています。

本能寺の変ののち、山崎の合戦に敗れ、生涯を終えたとされている光秀ですが、実は合戦から逃げ切り名を変えて生きていたのではないか、とするも存在しています。

その中でも特に有力なのが、光秀と江戸初期に幕政に大きな影響を与えた天海僧正が同一人物である、とする説です。

一見、非現実的にも見えるこのの真相を詳しく検証し、わかりやすく解説していきます!

本能寺の変後の明智光秀

本能寺の変を画策し、織田信長を倒したことで知られる明智光秀

史実では明智光秀本能寺の変を起こした後、山﨑の合戦において羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れ、落ち武者狩りによって命を落したとされています。

明智光秀が命を落とす直接の原因となった『落ち武者狩り』について詳しくは上記の記事をご覧ください!

山﨑の合戦後も光秀は生きていた?

前述のように光秀山﨑の合戦ののち、落ち武者狩りによって敗死したと伝えられています。

しかし、一部では光秀山﨑の合戦の戦乱から逃げ切り、生き延びたとする説も唱えられているのです。

明智光秀は山﨑の合戦で敗死せずに生き延びたとする説もある

では、生き延びた光秀はその後、どのような半生を送ったのでしょうか?

当然ですが、戦に敗れた光秀は、戦乱から逃げ延びることができたとしても、これまでと同じように過ごすことはできません。

もし、明智光秀が生きていると知れた場合は再び命を狙われることとなってしまうためです。

そのため、光秀は名前や素性を変え、余生を送っていたと考えられます。

ここで生まれたのが明智光秀=天海大僧正(てんかいだいそうじょう)の説です。

逃げ延びた明智光秀は天海大僧正と同一人物である説がある

明智光秀=天海大僧正説

この説は文字通り、明智光秀天海大僧正が同一人物であるとするもの。

戦乱から逃げ延びた光秀天海と名前を変え、余生を過ごしたということです。

天海は安土桃山時代後期から江戸時代初期にかけて大きな影響力を持った有名なの一人ですが、前半生がはっきりとしていないのです。

これほど大きな力を持ったの前半生が明らかになっていないことは珍しく、明らかになっていない天海の前半生が『明智光秀』として送ったものだとするのならば辻褄は合うと言えるでしょう。

天海の前半生は明らかになっていない=明智光秀として過ごしたため?

その他にも光秀と天海の共通点は多く見られます。

明智光秀と天海が同一人物だとする根拠

天海の前半生が明らかになっていないこと以外にも、明智光秀=天海大僧正説の根拠は複数挙げられます。

日光東照宮に見られる桔梗紋

天海比叡山にて仏教を学び、悲願の天下統一を果たした徳川家康に仕えます。

家康に大変気に入られた天海は、家康の側近として江戸幕府の発展に大きな影響を与えました。

家康日光東照宮(現在の栃木県日光市)を建設する際には、側近の天海を信頼し任せたとされている程です。

そうして日光東照宮の建設に大きく携わったとされる天海は、なんと東照宮の門やひさしに明智家の家紋である『桔梗紋』を描かせたのです。

天海がなぜ日光東照宮桔梗紋をデザインさせたのかははっきりとわかっていませんが、もし天海明智光秀が同一人物であるとするならば合点がいきます。

天海は日光東照宮に桔梗紋を描いた=明智家の家紋を後世に残したかった?

明智平の地

天海=明智光秀説の根拠は他にもあります。

日光東照宮へ向かういろは坂を登り切ると雄大な自然が広がる日光を一望できるポイントがあります。

天海はこの絶景ポイントを特に気に入っていたとされ、この地に『明智平(あけちだいら)』と名前をつけたのです。

秋には美しい紅葉が広がる明智平

この明智平に関してはかなりストレートなネーミングですよね。

自らを明智光秀と名乗ることはできなくなってしまったが、明智の名を後世に残したいとする天海大僧正の思惑を察することができます。

天海は日光の大自然を一望できる地を明智平と命名した

考察

上記にまとめたような明智光秀天海大僧正が同一人物だとする説には複数の根拠があり多くの歴史ファンが考察しています。

しかし、細かく史実を突き詰めていくとどこか不自然な箇所があったり、辻褄が合わなかったりもします。

ここで挙げた根拠を否定する説も数多く存在していますが、筆者は『明智光秀=天海大僧正説は信憑性がある』と思います。

本当のことは誰にもわかりませんが、史実を紐解き考察を重ねることも歴史の楽しみ方の一つかも知れませんね。

まとめ

  • 明智光秀は山﨑の合戦で敗死せずに生き延びたとする説もある
  • 逃げ延びた明智光秀は天海大僧正と同一人物である説がある
  • 天海の前半生は明らかになっていない=明智光秀として過ごしたため?
  • 天海は日光東照宮に桔梗紋を描いた=明智家の家紋を後世に残したかった?
  • 天海は日光の大自然を一望できる地を明智平と命名した
  • 筆者は『明智光秀=天海大僧正説は信憑性がある』と考察する

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