【井伊直弼】桜田門外の変とは?わかりやすく解説!

【井伊直弼】桜田門外の変とは?わかりやすく解説!

こんにちは!

東京都千代田区、皇居の桜田門の前で起きたことから、その名がついた『桜田門外の変』。

桜田門外の変とはどのような出来事なのでしょうか?

また、なぜ起こってしまったのでしょうか?

その背景や、関係した人物像にも触れながらわかりやすく解説していきます!

黒船(ペリー)来航

時は江戸末期。

アメリカからペリーが巨大な黒船に乗って日本に来航します。

ペリーの目的は日本と条約を結ぶことでした。

浦賀港に来航したペリーは、当時鎖国状態にあった日本に対し開国を要求します。

しかし、ペリーが要求した『日米修好通商条約』の内容はあまりにアメリカに有利なものでした。

普通であれば受け入れられない内容の条約でしたが、アメリカ側は強硬な態度を取っていました。

ペリーが黒船で来航し、不平等な『日米修好通商条約』を締結を迫る

同じ頃、アヘン戦争アロー戦争が勃発しており、絶対に戦争を避けたい幕府は条約を結ぶ事はやむを得ないと考えるようになりました。

しかし、反対派の声が大きくなることで幕府の権力が衰える可能性もあり、幕府は頭を悩ませました。

当時、老中を務めていた堀田正睦(ほったまさよし)は、天皇に許可を取ることで、反対派にも納得してもらおうとしましたが、孝明天皇(こうめいてんのう)はこれに反対。

堀田正睦はこれを機に力を失い、老中の筆頭としての座を追われました。

不平等条約と天皇の板挟みになった堀田正睦は失脚

老中・井伊直弼の政治

失脚した堀田正睦に代わり、大老として幕府の政治をリードしたのが井伊直弼(いいなおすけ)です。

アメリカとの条約問題が解決していないまま大老の座に就いた井伊直弼は、この状況を問題視し対応を急ぎました。

なんと、井伊直弼は天皇の許可を得ることができないまま、『日米修好通商条約』の調印(条約を結ぶ際のハンコを押すこと)を強行してしまったのです。

井伊直弼は孝明天皇や反対派を押し切り、不平等条約の調印を強行

条約問題は解決しましたが、井伊直弼は反対派(一橋派)からの強い批判に対して『安政の大獄』と呼ばれる政治を行うことで対処しました。

安政の大獄

『日米修好通商条約』の調印を半ば強引に押し進めた井伊直弼でしたが、一橋派と呼ばれる(一橋慶喜を推す)反対派の不満は高まっていきました。

噴出する反対派(一橋派)の批判や不満の声に対し、井伊直弼は反対派(一橋派)の大名や藩士を一斉に弾圧しました。

これにより、一橋派の多くの大名や藩士が謹慎処刑の処分を受けることとなりました。

この事件を『安政の大獄』といいます。

井伊直弼は自らに対する批判や不満の声を挙げた志士を『安政の大獄』により一斉に処分した

安政の大獄によって処分された主な大名・藩士

謹慎となった主な大名・藩士

  • 徳川斉昭
  • 徳川慶篤(水戸藩主)
  • 一橋慶喜

処刑された主な大名・藩士

  • 鵜飼吉左衛門
  • 橋本左内
  • 吉田松陰

これらの大名や藩士の他にも多くの志士が処罰を受けており、このことが一橋派の志士を中心にさらなる不満を集めていくのです。

桜田門外の変

井伊直弼の横暴とも言える『安政の大獄』により、怒りや不満を抱く藩士が多く現れました。

その中でも『安政の大獄』に特に激怒したのが、藩主を謹慎処分にされ、家老を含む4人が処刑された水戸藩の藩士たちでした。

怒れる水戸藩士たちは水戸藩脱藩(藩を抜け離れること。班に迷惑をかけないため)し、井伊直弼暗殺を企てます。

こうして水戸浪士に薩摩浪士を加えた合計18名が、江戸城・桜田門の外井伊直弼を殺害しました。

この事件が『桜田門外の変』と呼ばれるものです。

水戸浪士を中心とした18名が桜田門の外にて井伊直弼を殺害(桜田門外の変)

桜田門外の変により井伊直弼が殺害されたことによって、強引に押し進める江戸幕府の政治は一変し、朝廷(天皇)や諸大名と協力して政治を行うようになって行ったのでした。

まとめ

  • ペリーが黒船で来航し、不平等な『日米通商条約』を締結を迫る
  • 不平等条約と天皇の板挟みになった堀田正睦は失脚
  • 井伊直弼は孝明天皇や反対派を押し切り、不平等条約の調印を強行
  • 井伊直弼は自らに対する批判や不満の声を挙げた志士を『安政の大獄』により一斉に処分した
  • 水戸浪士を中心とした18名が桜田門の外にて井伊直弼を殺害(桜田門外の変)