弥生時代の稲作って?
こんにちは!
縄文時代の終わりから始まった水田稲作ですが、これが定着した文化を『弥生文化』と呼んでいます。
簡単にいうとお米を作って食べることですね!
弥生時代には日本の各地で実際に稲作が行われていましたが、この弥生時代の稲作の特徴や背景についてまとめていきます!
弥生時代の稲作の背景って?
主に縄文時代では、ナウマンゾウやニホンシカなどの動物を狩猟したり、クルミやブナなどの木の実を取って食べていました。
これを、自然から食料を”獲得”するという意味で『獲得経済』と呼んでいます。
それに対し、縄文時代晩期からは、自分たちでお米を育てることによって食料を得る『生産経済』へと変わっていったのです。
縄文時代後期から弥生時代にかけて『獲得経済』から『生産経済』へ
なぜ『生産経済』へと変わっていったのか?
それでは、なぜ生産経済へと移行していったのでしょうか?
簡単にいうと、『肉や木の実よりお米の方が日持ちするから』です。
弥生時代の人々はどうしたら安定して食料を確保することができるか考えた結果、食料を貯蔵することを思いついたのですね!
今では冷蔵庫や冷凍庫は当たり前に生活の中にありますが、当然、弥生時代には冷蔵庫も冷凍庫もありません。
そのため、長期間の貯蔵が可能なお米を主食とすることを選んだのですね!
長期間の貯蔵を考え、お米の生産がスタートした
しかし、お米を貯蔵しておくのも容易ではありません。
湿気やネズミによってお米が悪くなってしまったり、お米を巡った人間同士の争いもこの頃から生まれ始めます。
お米を貯蔵する苦難
お米は肉や木の実よりも日持ちすることは先ほどお話ししました。
しかし、それでも湿気やネズミの害によってお米が悪くなってしまうこともありました。
そこで弥生時代の人々はネズミが入れず、湿気も貯まりづらい『高床倉庫』を生み出したのです。
高床倉庫とは?
高床倉庫とは、読んで字のごとく、床が高くなっている倉庫のことです。
こんな感じの建物を弥生時代の人々は作っていたようです!
さらに、この倉庫の柱の部分には、ネズミなどの小動物が登ってこれないように『ねずみ返し』と呼ばれる機構も備えていました。
弥生時代の人たちって本当に賢いですよね!
これにより、お米の貯蔵が安定していったのです。
高床倉庫によってお米の貯蔵が安定した
しかし、こうして蓄えられた生産物を巡って人間同士の争いが頻繁に起こるようになってしまいます。
お米を巡った争い
うまく生産物を貯蔵できるようになると、それを奪い奪われの争いが起こるようになります。
そこで民衆は、お米や命を守るために、倉庫や住居をお堀や土塁で囲って侵入できないようにしました。
これを『環濠集落』と呼んでいます。
これによって争いが絶えることはありませんが、こうした工夫をしながら自分たちの生活を守っていたようです。
日本史の中ではこの『お米をめぐる争い』は常に各地で起こっており、非常に重要な問題です。
その始まりがこの弥生時代というわけなのですね!
『環濠集落』によって自分たちの生活を守っていた
稲作の発展
稲作が始まった当初は水が張った状態の田んぼである『湿田』で稲を育てていましたが、次第に、水は張っていないが、水路で水を引くことができる『乾田』へと変わっていきました。
乾田は状況に応じて水を張ったり出したりすることができるため、土の栄養が流出せず、より良いお米が育ちやすいとされています。
また、田を耕す際には木製の鍬を使用していた弥生初期に対し、弥生中期からは先に鉄製の金具をつけた鍬が使用され、さらに作業効率が上がっていったのです。
さらに収穫では、『石包丁』が登場し、稲穂を刈り取るのに重宝されました。
この石包丁は、三日月型に研がれた磨製石器の一種で、『穂首狩り』と呼ばれる刈り方に用いられました。
『湿田』から『乾田』へ稲作が発展し、石包丁も登場
まとめ
- 縄文時代後期から弥生時代にかけて『獲得経済』から『生産経済』へ
- 長期間の貯蔵を考え、お米の生産がスタートした
- 高床倉庫によってお米の貯蔵が安定した
- 『環濠集落』によって自分たちの生活を守っていた
- 『湿田』から『乾田』へ稲作が発展し、石包丁も登場
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