【明智光秀】山崎の戦いって何?
こんにちは!
2020年のNHK大河ドラマ『麒麟が来る』の主人公としても知られる明智光秀。
そんな明智光秀が最後を遂げた戦いが『山崎の戦い』です。
『天王山の戦い』とも呼ばれるこの合戦について、わかりやすく解説していきます!
なぜ山崎の合戦は起こったのか?
山崎の戦いは、天正10年(1582年)に起こったとされる、明智光秀軍と羽柴秀吉軍による合戦です。
同じ織田信長に仕える者同士がなぜ戦うことになってしまったのでしょうか?
『山崎の戦い』は天正10年に行われた、羽柴秀吉と明智光秀による合戦
備中高松城の戦い
同じ天正10年、羽柴秀吉は織田信長の指示により、毛利氏が治める備中高松城(現在の岡山県)に攻め込みます。
秀吉は水攻めによって高松城を完全に包囲し、城主の清水宗治の自刃による開城(城を明け渡すこと)を目前に控えていました。
秀吉は備中高松城を水攻めにより包囲し、開城寸前の状態であった
しかし、本能寺の変の知らせを受けた秀吉は態度を一変させることとなるのです。
本能寺の変
時を同じくして、明智光秀は、信長の命を受け、備中高松城の戦いの援軍へと向かい出陣しました。
しかしその道中、光秀は信長が上洛している本能寺へと軍を方向転換させました。
この時の本能寺の信長勢はわずか50人ほどであったのに対し、明智軍は13000の軍勢でありました。
明智光秀は13000の大軍勢をt従えて、信長のいる本能寺へ
しかし、この13000の大軍勢のほとんどが、信長の命により、徳川家康を討つのだと思っていたようです。
このことから、『明智軍記』で伝えられている有名なセリフ、『敵は本能寺にあり』という発言は、実際にはなかったとされています。
明智光秀の『敵は本能寺にあり』というセリフは俗説で、実際は戦う相手を伝えていなかった
光秀による謀反の知らせを家臣から伝え聞いた信長は、一言『是非に及ばず(仕方がない)』と口にしたと言われています。
この発言は、『頭が良く、能力の高い光秀の謀反であれば、逃げることは不可能であろう』という意味が込められていると考えられ、その後、槍で応戦した信長でしたが、すぐに御殿の奥の間で自刃したのでした。
本能寺の変により、織田信長は自刃した
中国大返し
一方、備中高松城を包囲していた羽柴秀吉(豊臣秀吉)は本能寺の変の報告を受け、すぐに和議(停・終戦)を結び、本能寺へ直行します。
備中高松城(現在の岡山県)から本能寺(現在の京都府)までおよそ200キロの距離でしたが、歩きで10日間という猛スピードで踏破したのです。
歩を急ぐ秀吉軍は10日間で200キロを踏破し、明智軍と衝突
秀吉、光秀の両軍は、山崎という地で衝突し、戦となります。
この戦が『山崎の戦い』なのです。
戦は、約16000の軍勢の明智軍に対し、秀吉軍は約40000とされる大軍勢で猛攻し、短期間のうちに勝負が決しました。
秀吉軍の大軍勢に及ばず、明智光秀は敗死
三日天下に終わった明智光秀
本能寺の変により、天下人の織田信長を討った明智光秀は天下人の名を手に入れる事となりました。
しかし、山崎の合戦により、敗死した光秀が『天下人』であった時間はあまりにも短く、その短さから『三日天下』と呼ばれるほどでした。
これも羽柴秀吉(豊臣秀吉)の機敏な中国大返しによるものですが、実際に光秀が天下をとった期間は11日間であったようです。
明智光秀の天下は11日間であった
また、光秀がなぜ本能寺の信長に謀反を行なったかということは今も明らかになっておらず、歴史ファンの間では日本史最大の謎として議論がなされています。
当時の時代背景を知り、推測することでまた新たな日本史の楽しみ方が見つかるかもしれませんね!
まとめ
- 『山崎の戦い』は天正10年に行われた、羽柴秀吉と明智光秀による合戦
- 秀吉は備中高松城を水攻めにより包囲し、開城寸前の状態であった
- 明智光秀は13000の大軍勢を従えて、信長のいる本能寺へ
- 明智光秀の『敵は本能寺にあり』というセリフは俗説で、実際は戦う相手を伝えていなかった
- 本能寺の変により、織田信長は自刃した
- 歩を急ぐ秀吉軍は10日間で200キロを踏破し、明智軍と衝突
- 秀吉軍の大軍勢に及ばず、明智光秀は敗死
- 明智光秀の天下は11日間であった
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