建武の新政って何?
こんにちは!
鎌倉時代が終わりを迎え、力をつけた後醍醐天皇は、自ら政治の実権を握りたいと考えていました。
そんな後醍醐天皇が行なった『建武の新政』とはどのような政治なのでしょうか?
背景や具体的な内容に触れながら、わかりやすく解説していきます!
後醍醐天皇は醍醐天皇に憧れていた?
平安時代中期、『延喜の治』で名を馳せた醍醐天皇。
この延喜の治は、理想的な政治として、のちの天皇にもお手本とされていました。
そんな醍醐天皇に憧れたのが、後醍醐天皇です。
醍醐天皇の後継として、『後醍醐天皇』と自ら名乗ったのです。
後醍醐天皇は醍醐天皇の政治に憧れ、自らを『後醍醐天皇』と名乗った
そして後醍醐天皇の行なった『建武の新政』は醍醐天皇が行なった『延喜の治』を目指していました。
建武の新政の内容とは?
『延喜の治』を理想に掲げた後醍醐天皇は『建武の新政』を開始します。
『延喜の治』と同様に『建武の新政』では、天皇を中心とした政治を特徴としています。
この時代は幕府や摂政、関白など、政治的に力のある立場が多かったのですが、後醍醐天皇はそうした立場の権力を抑え、天皇優位に政治を行うことができる体制を整えました。
また、後醍醐天皇は自らの権力を増すために、『綸旨』(りんじ)という命令を下します。
この時代においては、土地の所有が非常に重要なものでしたが、この『綸旨』によってのみ土地の所有を認めるというものです。
このように後醍醐天皇は、自らの権力を高める政策を施し、天皇中心の政治を目指していったのです。
建武の新政の特徴は、天皇中心の政治
しかし、この建武の新政はなかなかうまくいかず、民衆の混乱を招いてしまいます。
建武の新政の混乱
後醍醐天皇が権力強化のために発令した『綸旨』は、民衆の不満を集め、混乱させることとなります。
前述のように『綸旨』は土地の所有を天皇によってのみ認めるものですが、逆にいうと綸旨が発行されなければ、土地の所有が認められない、ということになります。
民衆は京都で後醍醐天皇による綸旨の発行を待ちますが、後醍醐天皇としても、一人で無数の綸旨を発行せねばなりません。
ここから次第に綸旨の発行は滞り、社会の混乱へと繋がっていくのです。
また、鎌倉幕府の倒幕に尽力した多くの武士たちの扱いが悪かったことも明らかになっています。
このようにして民衆や武士から不満を集めた『建武の新政』はたった3年で終わりを迎えることとなってしまったのです。
建武の新政は民衆や武士の不満を集め、3年で崩壊
まとめ
- 後醍醐天皇は醍醐天皇の政治に憧れ、自らを『後醍醐天皇』と名乗った
- 建武の新政の特徴は、天皇中心の政治
- 建武の新政は民衆や武士の不満を集め、3年で崩壊
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