【徳川家康】天下分け目の関ヶ原の戦いとは?わかりやすく解説!
- 2020.05.17
- 戦国時代
- 上杉景勝, 五大老, 五奉行, 前田利家, 大谷吉継, 宇喜多秀家, 島津義弘, 徳川家康, 毛利輝元, 浅野幸長, 石田三成, 福島正則, 細川忠興, 豊臣秀吉, 豊臣秀頼, 黒田長政
こんにちは!
天下分け目の関ヶ原として知られる『関ヶ原の戦い』。
このブログをご覧の皆さんも一度は耳にしたことがあるかと思います。
約300年続く江戸幕府を築いた徳川家康が天下を手にする決め手となった戦いでもあります。
日本史の教科書でも大きく取り上げられる関ヶ原の戦いですが、どのような背景があって戦いが起こってしまったのでしょうか?
ここでは、そんな天下分け目の関ヶ原についてわかりやすく、そして詳しくまとめていきます!
戦いの背景
豊臣秀吉の死
慶長3年、時の天下人であった豊臣秀吉が62歳の生涯を終えました。
秀吉は太閤検地や刀狩令、惣無事令といった法を確立し、民衆を治めました。
秀吉が亡くなった当時、息子の秀頼はまだ幼かったため、大老である徳川家康、毛利輝元、上杉景勝、前田利家、宇喜多秀家の5名が秀頼をサポートするという形で事実上の政権を握ります。
これに、豊臣家の上層部とされる5名からなる五奉行を加えた五大老五奉行によって秀吉亡き豊臣政権が運営されていくこととなりました。
秀吉の死後、息子の秀頼をサポートする形で五大老が政治の実権を握った
五大老と五奉行の対立
上記の五大老の中でもはじめに動きを起こすのが徳川家康です。
家康はそれまで禁止されていた結婚の斡旋や領地の受け渡しを五奉行への相談無しに勝手に行うようになりました。
これに激怒したのが五奉行の筆頭である石田三成です。
普通に考えれば悪いのは家康のようにも思えますが、実際のところは結婚の斡旋や領地の授与によってかなり助かっている武将も多くいたのです。
これにより武将たちは、家康派と三成派に別れ対立を深めていくのでした。
家康の行動により五大老五奉行は対立、家康派と三成派に別れていった
関ヶ原の戦い
秀吉の死から2年経過した1600年、関ヶ原での大戦が幕を落とします。
徳川家康率いる東軍、石田三成率いる西軍、両軍の兵力は東軍が約88000、西軍が約85000と、それほど大きな差はありませんでした。
家康率いる88000の東軍、三成率いる85000の西軍が激突
東西の主要な武将は以下の通りです。
東西の主要な武将
東軍
- 徳川家康
- 黒田長政
- 細川忠興
- 浅野幸長
- 福島正則 他
西軍
- 石田三成
- 毛利輝元
- 宇喜多秀家
- 大谷吉継
- 島津義弘 他
戦いの結果
天下分け目の関ヶ原は家康率いる東軍の勝利で終わりました。
しかも僅か1日で戦闘が終了したというスピード決着でした。
この結果により、力を強めつつあった家康はその力をより強力なものとし、全国を統一したのでした。
関ヶ原の戦いで勝利したことで徳川家康はその力を確実なものとした
戦いの考察
上記のように東軍と西軍では、戦力数の違いはそれほどありませんでした。
しかし、家康は三成率いる西軍をたった1日で退け天下を自らの手中に収めました。
これは何故なのでしょうか?
もちろん家康の戦略や東軍の武将が優れていたということもあります。
しかし、この戦いの戦況を大きく左右したのは小早川秀秋らの『裏切り』だとされています。
この裏切りについては諸説あり、現在も多くの歴史ファンの間で考察や議論がなされています。
関ヶ原の戦いで裏切った武将やその背景については近日公開の記事をご覧ください!
関ヶ原の戦いでは『裏切り』によって大きく戦況が変化した
まとめ
- 秀吉の死後、息子の秀頼をサポートする形で五大老が政治の実権を握った
- 家康の行動により五大老五奉行は対立、家康派と三成派に別れていった
- 家康率いる88000の東軍、三成率いる85000の西軍が激突
- 関ヶ原の戦いで勝利したことで徳川家康はその力を確実なものとした
- 関ヶ原の戦いでは『裏切り』によって大きく戦況が変化した
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