【下関戦争】四国艦隊下関砲撃事件とは?わかりやすく解説!
こんにちは!
突然ですが、下関戦争って聞いたことありますか?
下関戦争は文字通り山口県下関市を舞台にした戦争です。
また、四国艦隊下関砲撃事件(しこくかんたいほうげきじけん)とも呼ばれています。
ここではそんな下関戦争(四国艦隊砲撃事件)について起こった原因や背景も交えながらわかりやすく解説していきます!
下関戦争開戦の背景
開国により高まる尊王攘夷思想
1853年、ペリーは黒船に乗り、浦賀港に来航します。
ここでペリーは日本に不平等な条件で開国を要求、強引にアメリカが押し切る形で幕府は日米修好通商条約を締結しました。
日米修好通商条約の締結や安政の大獄により、民衆からの大きな不満を集めた井伊直弼は桜田門外の変により殺害されることとなりました。
幕政を大きく主導していた井伊直弼が殺害されたことや、開国によって日本の経済が混乱したことから、民衆は天皇を尊び、外国の勢力に負けないような国家を目指すようになりました。
この考え方を尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)と言います。
開国による国内の混乱で尊王攘夷思想が高まっていった
下関艦隊砲撃事件
長州藩が攘夷を強行
日本各地で尊王攘夷思想が広がる中、長州藩(現在の山口県)は特に攘夷思想を強く抱いていました。
その長州藩は1863年5月、田浦港に停泊していたアメリカの商船、ペンブローグ号を砲撃しました。
突然の急襲に驚いたペンブローグ号はすぐに逃げましたが、結果として外国船を追い払った形となった長州藩は盛り上がり、攘夷に向けての士気をさらに高めることとなりました。
そこから長州藩は、立て続けにフランスのキャンシャン号、オランダのメデューサ号を砲撃し、攘夷を推し進めて行ったのでした。
長州藩はアメリカ、フランス、オランダの船を立て続けに急襲した
アメリカ、フランスによる報復
ペンブローグ号の急襲事件を聞いたアメリカ公使は横浜に停泊中だったワイオミング号に、長州藩に対しての報復をするように指示しました。
これにより、ワイオミング号は下関海峡にて長州藩の庚申丸、壬戌丸、癸亥丸を砲撃します。
数では優っていた長州藩の船舶でしたが、圧倒的なワイオミング号の性能の前に3船とも撃沈、大破したのでした。
その後もフランス海軍のセミラミス号とタンクレード号も同様に下関海峡に入り、水陸の両方から猛攻を仕掛けました。
これにより長州藩は大きな打撃を受けることとなったのです。
アメリカ、フランスからの手痛い報復によって、長州藩は壊滅寸前の状態に
長州藩の孤立
上記の一連の事件を受け、幕府は長州藩に対し厳重注意を行いました。
しかし長州藩はこの注意を一切聞き入れないどころか、朝陽丸という戦艦を拿捕し、中根一之允らを暗殺したのです。(朝陽丸事件)
この頃から長州藩士をはじめとする尊王攘夷派の勢力が衰えはじめ、長州藩は次第に孤立していきました。
強硬な態度を貫く長州藩は次第に孤立していった
四国連合艦隊の結成
その後も長州藩は強硬な態度を崩すことなく、下関海峡を閉鎖し続けました。
下関海峡の閉鎖はイギリスを中心とした貿易国に多大な損害をもたらしました。
直接砲撃の被害を受けていなかったイギリスは、アメリカ、フランス、オランダの3国と会合を行い、長州藩への攻撃を画策します。
これにより、上記の4国が同盟を結び、四国連合艦隊を結成したのです。
イギリスが主導し、四国連合艦隊を結成
四国連合艦隊が長州藩を攻撃
1864年8月、イギリス艦9隻、オランダ艦4隻、フランス艦3隻、アメリカ艦1隻の計17隻の四国連合艦隊が下関海峡を目指し、横浜を出発しました。
長州藩は約2000の兵で迎え打ちましたが、対する四国連合艦隊は5000余りの兵数と大きな戦力差がありました。
さらに艦隊の性能も歴然としていたため、長州藩の砲台はことごとく破壊され、多くの死傷者を出すこととなりました。
長州藩は四国連合艦隊を迎え撃ったが、圧倒的な戦力差の前に敗戦を喫する
戦後の動き
下関戦争に敗戦した長州藩は、その圧倒的な戦力差により、攘夷が不可能であることを実感します。
攘夷を半ば諦めた長州藩は、倒幕(幕府を倒すこと)をさらに推し進める方針に切り替えました。
この四国艦隊連合砲撃事件は倒幕、そして大政奉還へと繋がっていく大きなターニングポイントとなったのでした。
四国艦隊連合砲撃事件は頑なな態度を貫く長州藩を大政奉還へと向かわせる大きなポイントとなった
まとめ
- 開国による国内の混乱で尊王攘夷思想が高まっていった
- 長州藩はアメリカ、フランス、オランダの船を立て続けに急襲した
- アメリカ、フランスからの手痛い報復によって、長州藩は壊滅寸前の状態に
- 強硬な態度を貫く長州藩は次第に孤立していった
- イギリスが主導し、四国連合艦隊を結成
- 長州藩は四国連合艦隊を迎え撃ったが、圧倒的な戦力差の前に敗戦を喫する
- 四国艦隊連合砲撃事件は頑なな態度を貫く長州藩を大政奉還へと向かわせる大きなポイントとなった
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