バテレン追放令って何?
こんにちは!
織田信長の死後、天下統一し、政治を行なった豊臣秀吉は、数々の政策で住民を治めていきました。
太閤検地で年貢の徴収をスムーズに行なったり、刀狩令で兵農分離を進めたりと、その功績は多大なものとなりました。
秀吉が行なった重要政策の一つである『太閤検地』についてはこちらをご覧ください!
ここでは、そんな秀吉の政策の一つである『バテレン追放令』についてわかりやすく解説していきます!
信長とキリスト教
秀吉が天下人となる前、天下統一し、日本を治めていた織田信長は、新しい物好きでした。
それまでの慣習にとらわれず、良いと思ったものは積極的に取り入れていく性格の持ち主であったため、海外からの文化も多く取り入れていました。
信長の性格がよく表れている政策の一つ、『楽市令』についてはこちらをご覧ください!
そんな信長は、海外から伝来した『キリスト教』を容認していました。
信長自体はキリシタン(キリスト教信者)ではなかったようですが、海外の文化の一つとして受け入れ、民衆も自由に信教できるよう保護しました。
信長はキリスト教を積極的に受け入れ、保護した
秀吉とキリスト教
信長の死後、秀吉も信長と同じく、キリスト教を保護します。
しかし、キリシタン大名である大村純忠(おおむらすみただ)が協会に土地を寄付していた事実を知り、秀吉は態度を一変させるのです。
当初、秀吉は信長に倣い、キリスト教を保護した
バテレン追放令とは
大名がキリスト教を信仰することで、自分の支配が行き届かなくなるのではないか、と考えた秀吉が新たに出した政策が『バテレン追放令』です。
この政策は、海外から渡来し、キリスト教を布教するキリスト教宣教師を国内から追放するものでした。
こうして秀吉は国内からキリスト教を無くそうとしたのです。
キリスト教を恐れた秀吉は『バテレン追放令』によりキリスト教宣教師を国内から追放
26聖人殉教とは
それから秀吉は、キリスト教への警戒をさらに高めていきました。
スペインからやってきたサン=フェリペ号が土佐に漂着する事件をきっかけに、秀吉は京都に住む宣教師とキリスト教信者を全員殺してしまいました。
この時処刑された26人を日本26聖人と呼び、この事件を『26聖人殉教』と呼んでいます。
秀吉は26人のキリスト教宣教師、キリシタンを長崎で処刑
処刑が行われた長崎県長崎市の西坂公園には、処刑された26人の聖人を追悼するオブジェが設けられており、長崎県の史跡に指定されています。
歴史の舞台になった地を訪れてみるのも良いかもしれませんね。
まとめ
- 信長はキリスト教を積極的に受け入れ、保護した
- 当初、秀吉は信長に倣い、キリスト教を保護した
- キリスト教を恐れた秀吉は『バテレン追放令』によりキリスト教宣教師を国内から追放
- 秀吉は26人のキリスト教宣教師、キリシタンを長崎で処刑
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