【暴れん坊将軍】徳川吉宗による享保の改革とは?

【暴れん坊将軍】徳川吉宗による享保の改革とは?

こんにちは!

暴れん坊将軍や米将軍と呼ばれ、『享保の改革』を行なったことでも知られる江戸幕府8代将軍、吉宗

では、そんな徳川吉宗が行なった享保の改革の内容はどのようなものだったのでしょうか?

吉宗が暴れん坊将軍や米将軍と呼ばれるようになった背景と合わせながら、わかりやすく解説していきます!

徳川吉宗は徳川家の本家ではない?

徳川幕府7代将軍、家継は3歳で将軍となり、7歳で亡くなってしまいました。

そのため、家継は子どもがおらず、徳川家の血筋は途絶えてしまいました。

後継に困った幕府は、分家の紀伊家から家康のひ孫に当たる徳川吉宗を第8代将軍に立てました。

徳川吉宗は分家の出身

このように本家の跡取りがいなくなってしまうことは、徳川幕府では何度か起こっていたので、それを危惧した徳川吉宗は「分家を増やそう」と考えました。

こうして、田安家、一橋家、清水家を『三卿(さんきょう)』として置くことで後継断絶を防ぎました。

吉宗は後継がいなくなることを危惧し、『三卿』を創設

享保の改革

徳川吉宗は家柄にとらわれず、優秀な人材を積極的に登用しました。

荻生徂徠(おぎゅうそらい)や大岡忠相(おおおかただすけ)などがその代表的な例です。

このように積極的に優秀な人材を登用した吉宗の政治は『享保の改革』と呼ばれ、江戸の三大改革の一つとして数えられるほど、優れた政治でした。

享保の改革は家柄によらず、優秀な人物を積極的に登用した

公事方御定書

また、徳川吉宗は、裁判での判例をまとめた『公事方御定書』を作りました。

この公事方御定書によって判決にばらつきのあった当時の裁判をより正確になるように試みました。

吉宗は判例をまとめた『公事方御定書』を編纂させる

目安箱

現在では暴れん坊将軍として知られる吉宗ですが、民衆想いの一面もありました。

城下町には目安箱と呼ばれるポストのようなものを設置し、そこに民衆の意見を紙に書いて入れるよう指示しました。

このようにして民衆の意見や不満に耳を傾けることで、より多くの民衆が暮らしやすい世の中を作っていったのです。

吉宗は『目安箱』を設置し、民衆の声に耳を傾けた

米の徴収にこだわった吉宗

この頃の江戸幕府は、長きにわたり財政が不安定な状態が続いていました。

この状況を打開するために吉宗は『倹約令』を出し、民衆の贅沢を禁止し、節約を促します。

しかし、倹約令のみでは幕府の財政は安定しませんでした。

そこで吉宗は民衆から年貢として徴収していたコメをより多く徴収できないかと考えたのです。

各大名に参勤交代の期間を短くする代わりに、より多くのコメを納めるように指示しました。

※参勤交代は、大名が1年間、自分の領地を離れて幕府に仕えなくてはならない、というもの。

さらに、収穫したコメの○%を納める、という方式だった年貢の形態を、収穫したコメの量にかかわらず、一定に統一する形態に変更したのです。

このことによって、不作でコメの収穫が少ない年でも安定して、年貢を集めることができるようになりました。

年貢の形態を変更することで、安定してコメを集めることに成功した

頻発する『打ちこわし』

一見うまくいったかのように思われた吉宗の政治ですが、長続きはしませんでした。

コメをたくさん徴収し、世の中にコメがたくさん出回ることで、コメの価格は下落します。

市場での価格のバランスが崩れてしまうことで民衆の不満は徐々に高まっていくのでした。

一度下落したコメの価格ですが、『享保の大飢饉』と呼ばれる歴史的なコメの凶作が発生した際には、逆にコメの価格が急騰しました。

これによりコメを買うことができなくなった民衆が米問屋を襲い、コメを奪っていく『打ちこわし』が全国各地で頻発しました。

コメの価格が不安定になり、『打ちこわし』が全国的に頻発した

暴れん坊将軍や、米将軍と呼ばれた徳川吉宗が行なった享保の改革は、良くも悪くもコメに振り回された政治となってしまいました。

まとめ

  • 徳川吉宗は分家の出身
  • 吉宗は後継がいなくなることを危惧し、『三卿』を創設
  • 吉宗は判例をまとめた『公事方御定書』を編纂させる
  • 吉宗は『目安箱』を設置し、民衆の声に耳を傾けた
  • 年貢の形態を変更することで、安定してコメを集めることに成功した
  • コメの価格が不安定になり、『打ちこわし』が全国的に頻発した