【生涯年表】武田信玄ってどんな人?年表を使ってわかりやすく解説!

【生涯年表】武田信玄ってどんな人?年表を使ってわかりやすく解説!

こんにちは!

武田信玄は『甲斐の虎』として知られる戦国武将です。

武田信玄率いる武田軍は当時最強と言われ、多くの戦国武将を脅かしました。

また、『越後の龍』とも呼ばれた上杉謙信は、武田信玄のライバルとしても知られ、川中島の戦いでは5度も刀を交わしています。

このように、歴史上でも人気の武田信玄は一体どのような生涯を送ったのでしょうか?

ここでは武田信玄の逸話やエピソードも紹介しながら、その生涯をまとめた年表でわかりやすく解説していきます!

武田信玄の生涯年表

西暦
(年齢)
出来事
1521年
(1歳)
武田信虎の嫡長子として、甲斐国に生まれる。幼名は太郎。
1533年
(13歳)
上杉朝興の娘、「上杉の方」を正室に迎える。
1536年
(16歳)
元服。名を晴信に改める。
三条公頼の娘、三条夫人を継室として迎える。
1541年
(21歳)
父、信虎を追放し、武田家の家督を相続する。
1542年
(22歳)
桑原城の戦い、宮川の戦いに勝利、諏訪を掌握する。
1545年
(25歳)
高遠合戦。信濃の高遠城、福与城を制圧。
1548年
(28歳)
上田原の戦い。上田原にて村上義清と激突するが敗戦。
晴信(信玄)自身も傷を負った。
1950年
(30歳)
林城を落城させ、中信地方を制覇。
1551年
(31歳)
葛尾城を落とし、村上義清に勝利。
村上義清が越後の長尾景虎(上杉謙信)の元へ逃げたため、東信地方を制覇。
1553年
(33歳)
第一次川中島の戦い
村上義清らの要請を受け、長尾景虎(上杉謙信)が信濃への出兵を開始。信濃・川中島にて、晴信(信玄)景虎(謙信)は何度も刀を交えるが、決着はつかず、両軍とも撤退。
1554年
(34歳)
駿河の今川氏、相模の北条氏と婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立。
1555年
(35歳)
第二次川中島の戦い
200日余りに渡り、川中島で景虎(謙信)と対陣するも、今川義元の仲介により和睦。両軍は撤退。
1557年
(37歳)
第三次川中島の戦い(上野原の戦い)。
景虎(謙信)武田家の北信侵攻に対抗すべく出陣するが、晴信(信玄)が決戦を避けたため、決着は付かず。
1559年
(39歳)
出家。名を『信玄』と改める。
1561年
(41歳)
第四次川中島の戦い
この第四次合戦は一連の戦いの中で最も規模の大きい戦いとなった。
1564年
(44歳)
第五次川中島の戦い
信玄の飛騨国侵入を防ぐために輝虎(謙信)出陣。
対する信玄塩崎城に布陣し、両陣が衝突することはなかった。
1566年
(46歳)
西上野へ侵攻。箕輪城を落とす。
1567年
(47歳)
今川家との関係が悪化し、甲相駿三国同盟が破綻。
1568年
(48歳)
徳川家康と共に、駿河今川領を攻め込む。
同時に同盟関係が続いていた北条氏との関係も悪化し、甲相同盟も破綻。
1571年
(51歳)
北条家当主である北条氏康が『再び武田家と和睦せよ』との遺言を残し病死。
跡を継いだ北条氏政はこれに従い甲相同盟が回復。
1572年
(52歳)
婚姻を結び、同盟関係にあった織田家との関係が悪化し、同盟関係は破綻した。
1573年
(53歳)
三河・野田城を攻略。
その頃からしばしば吐血するようになっていたが、甲斐に引き返す道中にて病死。享年53。

川中島の戦い

武田信玄の生涯をおさらいする上で、川中島の戦いは欠かせません。

川中島の戦いは1553年から1564年のおよそ12年に渡って行われた一連の戦いを指します。

主に千曲川と犀川の合流するあたりの平地である川中島(現在の長野県長野市)を主戦場としたことから、川中島の戦いと呼ばれています。

5度あったとされている川中島の戦いですが、その中でも最も白熱したと言われているのが、第四次川中島の戦いです。

川中島の戦いと言ったら第四次合戦のことを指す』とも言われているほど代表的かつ激しい戦いではありましたが、実は確かな資料は残っておらず、江戸時代の軍記物語を元に語られています。

12年に渡る川中島の戦いの中でも、第四次合戦が最も激戦とされた

川中島の戦いの勝敗

川中島の戦いの結果については諸説ありますが、基本的には両者が勝利を主張する形で決着しました。

もともと武田信玄上杉謙信の治める信濃に出陣したことが始まりとされる川中島の戦い

ここに注目してみると、信玄は最終的に北信濃の地を手に入れていますので、信玄を勝者とする見方もあります。

しかし、12年におよぶ戦いにおいて、武田軍山本勘助、武田信繁などの主要武将を含む4000人の死者を出しています。

対する上杉軍は死者を3000人にとどめ、主要な武将も敗死していません。

当初の上杉軍は「土地を奪いたい」というよりも、村上義清や豪族らの要請により出兵した形ですので、多くの死者を出さなかったという点では上杉謙信を勝者と見ても良いかもしれません。

このように両者の目的が異なる戦であったため、勝者がはっきりしていないのです。

川中島の戦いは双方が勝利を主張しはっきりしていない

信玄の最期とその後

1573年、信玄は三河の野田城を攻め落とします。

その直後から、たびたび吐血するようになっていきました。

病魔が信玄の身体を蝕んでいたのです。

それまで破竹の勢いで進軍していた武田軍は突如として停止し、信玄長篠城にて療養することとなります。

信玄は野田城を落とした直後から体調が悪化、長篠城にて療養する。

長篠城にて療養していた信玄でしたが体調は回復せず、近習・一門衆の合議にてやむなく甲斐に撤退する判断が下されました。

そして同年4月12日、軍を甲斐に引き返す道中にて信玄は病死。

享年53でした。

死因となる病気については肺結核や癌など諸説ありますがはっきりしたことは分かっていません。

信玄は甲斐へ撤退する道中に病死  享年53

信玄の遺言

信玄は死の直前に遺言を残します。

1つ目は信玄の死が発覚すると他大名が攻め込んでくるかもしれないと恐れた故、自らの死を3年間隠し通すように、とのこと。

2つ目は何か不足の事態があれば上杉謙信を頼るように、とのこと。

特に二つ目からは、何度も戦を交えた相手である上杉謙信を、敵ながら信頼していた様子が窺い知れます。

信玄の死後、武田家の家督を相続した勝頼はこの遺言を守り、3年の間、信玄の死を秘匿し、葬儀も行いませんでした。

しかし、武田軍が突然進路を変更したことなどから他大名には信玄の死はバレてしまっていたようです。

信玄は自らの死を3年間隠すように遺言を残すが、隠しきれなかった

長篠の戦い

そして信玄の死から2年後の1575年、織田信長徳川家康の連合軍が三河・長篠の地に軍を寄せ、戦となりました。

これが長篠の戦いです。

この戦いでは織田信長が当時は珍しかった鉄砲を使用し、武田軍を寄せ付けない完璧な戦いを披露しました。

この戦いでの大敗をきっかけに武田家は衰退の一途を辿って行くこととなったのです。

長篠の戦いにて大敗し、武田家は衰退していく

まとめ

いかがだったでしょうか?

志半ばで病床に伏すこととなってしまった武田信玄ですが、もし病気にならずに生きていたら歴史は変わったのでしょうか?

そんな想像を楽しむのも歴史の醍醐味の一つかもしれませんね。

  • 12年に渡る川中島の戦いの中でも、第四次合戦が最も激戦とされた
  • 川中島の戦いは双方が勝利を主張しはっきりしていない
  • 信玄は野田城を落とした直後から体調が悪化、長篠城にて療養する
  • 信玄は甲斐へ撤退する道中に病死  享年53
  • 信玄は自らの死を3年間隠すように遺言を残すが、隠しきれなかった
  • 長篠の戦いにて大敗し、武田家は衰退していく