【生涯年表】直江兼続ってどんな人?年表を使ってわかりやすく解説!

【生涯年表】直江兼続ってどんな人?年表を使ってわかりやすく解説!

こんにちは!

「愛」の字の兜で有名な直江兼続

皆さんも一度は耳にしたことがある名前だと思います。

今回は、その直江兼続の生涯年表をもとに、どのような人物だったのか解説していきます!

直江兼続の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1560年(0歳)越後国上田庄にて誕生。
幼名・与六
1580年(20歳)上杉景勝の側近として働く。
1581年(21歳)直江家を継いで直江兼続と名乗る。
与板城主となる。
1584年(24歳)内政・外交のほぼ全ての取次を任されるようになる。
1586年(26歳)十五位下の官位を叙せられる。
1588年(28歳)豊臣秀吉から豊臣姓を与えられる。
1598年(38歳)出羽国米沢に6万石の領地を与えられ、大名となる。
1600年(40歳)最上家伊達家の連合軍と庄内地方を巡って戦う。
1608年(48歳)改名し、直江重光と名乗る。
1620年(60歳)江戸鱗屋敷で病死する。

直江兼続は、越後国上田庄(現在の新潟県南魚沼市)の坂戸城下にて生まれたと言われています。

上記の年表を見ると、0歳から20歳までの間が抜けていますよね。

実は歴史上の史料には、それまで兼続がどのような活動をしたのかははっきりと載っておらず、諸説があります。

その中の一説として、幼い頃から上杉景勝と仲が良く、共に勉学に励んだというものがあります。

後に兼続景勝の側近として仕え、主従を超えた友情を築いたと言われています。

ここからは、兼続にまつわるエピソードをいくつか紹介していきます!

直江状について

直江兼続徳川家康に宛ててかいた書状である、「直江状」。

これは関ヶ原の戦いを起こすきっかけになったものです。

豊臣秀吉がこの世を去り、家康は天下をとろうとしていました。

その時家康は、上杉景勝に自分に従うよう命じました。

しかし兼続は、これを断り家康のことを悪く書いた手紙を送りつけます。

家康はもちろん激怒し、景勝を攻める戦いを勃発させたのです。

直江状の内容を簡単にいくつか紹介します。

まず一つ目は、「上杉はやたらと武器を集めていると仰られておりますが、家康様に逆らうために武器を集めているのではありません。私どもは田舎者なので武器を集めることが趣味なのです。あなた方のような都会人が茶道具を集めておられるのと同じようなことです。それぞれの文化というものがあるでしょう。想像してみてください、景勝が茶道具を集めていたら可笑しいでしょう?そんなことを気にするなんて、器が小さい天下取りですよ。」

家康は、上杉がやたらと武器を集めて自分を討とうとしていると疑いをかけていたのです。

武器を持っているだけであらぬ疑いをかけられ、いい気はしませんよね。

そのため兼続は、上記の文章を書き家康に嫌味で返したのです。

そして二つ目は、「景勝は謀反を企んでなんかいません。我々が無理やり天下をとったところで、世の中を乱した者として悪名が広まるだけです。そんな恥さらししてまで景勝には欲がありません。どうかご安心ください。ですが、景勝が悪いやつだと世間で言われているようですね。謀反だなんだと騒いでいる人の話を聞いてみたいものです。」

こちらは、景勝が謀反を企んでいると思っている家康に対する嫌味です。

なぜ景勝がそのようなことを企んでいるか説明して欲しい、できないなら家康上杉側を悪者にしていることになるということです。

以上のようなことを、遠回しに嫌味っぽく言っているお手紙が、直江状です。

直江状は、家康に散々嫌味を言われていたことに対する仕返しのようなものだった

伊達政宗とは不仲だった

伊達政宗が「金の大判」を見せびらかしたときのことです。

政宗は、末座に掛けていた兼続に「遠慮しないで触って見てみるがよい」と言いました。

すると兼続は、「こんな汚いものには触れたくありません」と投げ返したと言います。

更に、上杉徳川についた後の話です。

兼続は大名である政宗とすれ違っても挨拶をしなかったのです。

もちろん政宗はいい気がしないので、兼続に挨拶しないことを注意しました。

それに対し兼続は、「政宗様は戦いで負けて逃げるような姿しか見ていないので、そのこいることに気付かなかったです」と言い返したのです。

このような、政宗に対する姿勢から、兼続はとても肝が座っている性格だと分かります。

兼続は政宗と仲が悪く、肝が座っている態度だった

「愛」の兜について

兼続の兜に乗っている、「愛」の文字。

この意味はどのようなものなのか、解説していきます!

これは、仏教の「愛染明王」からとっていると思われます。

上杉家は仏教派で、仏に仕える「毘沙門天」に上杉謙信が熱心に信仰をしていました。

兜の写真をよく見ると、「愛」が雲の上に乗っているように見えます。

雲の上に仏様の名前を一文字だけ乗せることで、長い名前を省略するという決まり事がありました。

この場合ですと、「愛染明王」の一文字目である「愛」を乗せているのですね。

戦場でも愛染明王の加護を願うものとして、兜が作られたのです。

兜の文字は、仏の名からとっていた

まとめ

いかがでしたか?

直江兼続には、とても多くの説やエピソードが残されています。

特に上記でも取り上げた「直江状」については、ご紹介した他にも内容が書かれていました。

それについても更に深く調べてみると面白いかもしれませんね。

当ブログでは、直江兼続と深い関わりのある上杉景勝についてもまとめています。

是非ご覧ください!

  • 直江状は、家康に散々嫌味を言われていたことに対する仕返しのようなものだった
  • 兼続は政宗と仲が悪く、肝が座っている態度だった
  • 兜の文字は、仏の名からとっていた