【生涯年表】上杉謙信ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

一度は耳にしたことがあるであろう、上杉謙信

皆さんは、上杉謙信がどんな人かご存じですか?

ここでは上杉謙信が何をした人なのか、年表を使ってわかりやすく説明していきます!

上杉謙信の生涯年表

西暦出来事
1530年越後国守護代の長尾為景の4男として生まれ、
幼少期は虎千代と名乗った。
1536年為景が隠居。兄の晴景が家督を継いだため、
謙信は林泉寺という寺に預けられる。
1542年為景が病役する。
1543年虎千代は元服し、長尾景虎と名乗る。
晴景の命令で三条城、次いで栃尾城に入る。
1544年初陣、栃尾城の戦いを鎮圧する。
1548年家督を継ぐ。
1552年関東管領であった上杉憲政を保護する。
1553年上洛して天皇に謁見する。
1557年関東管領職を引き継ぐ。
1561年第四次川中島合戦で、ライバルである武田信玄と決闘。
1573年越後を平定。
1578年春日山城で病死

上杉謙信は「越後の虎」と呼ばれ、毘沙門天の化身としても名高い軍神だったのです。

また、林泉寺に預けられた時には、教養や兵学を学び(特に兵学に興味を示した)、武将としての礎を築いたそうです。

ここからは、そんな上杉謙信にまつわるエピソードを紹介していきます!

敵に塩を送る

こちらは、戦国時代のエピソードの中でも有名なもののひとつです。

武田信玄が駿河国に侵政したとき、駿河国主の今川氏真(義元の息子)はその報復として信玄の領地に塩を送ることを禁止しました。

信玄の領地は内地なので海がなく、塩を生産することができません。

このことを知った謙信は、氏真の行いを「卑怯者である」と非難した上で、信玄の領地に塩を送ったと伝えられています。

信玄と戦うべきは弓(戦争)にあって、米塩ではない。」

という名言を残しています。

校正の創作であるとの説もありますが、この謙信の義侠心に感謝した信玄がお礼として謙信に送ったと伝えられています。

この逸話から、敵が苦しんでいるときに、あえてその苦境を救うことを「敵に塩を送る」というようになりました。

「敵に塩を送る」ということわざは、上杉謙信の男気ある行動が生み出した

家出騒動

これは、謙信長尾景虎として長尾家の家督を継いだころの話です。

越後は幾多の豪族が入り乱れる土地で、領内だけでも領土争いが行われていました。

守護はそうした争いの調停役でもあります。

当時の長尾家は守護と同等の権力を持っていたため、そうした係争事案がしょっちゅう持ち込まれました。

ある日、景虎は子どものころ修行した林泉寺の住職に「自分勝手な人ばかりで嫌になったので家出します」と書置きを残して、誰にも言わずに家出。

本当に出家するために高野山へ行ってしまいました。

家臣たちは困ってしまい、すぐに追いかけ必死に懇願して、戻ってきてもらうことができました。

上杉謙信は協調性を大事にする性格だった

まとめ

いかがでしたか?

年表やエピソードを見てみると、上杉謙信がどのようなことを成し遂げたか、そして人柄もよくわかりますよね。

年表に出てくるほかの人物についても調べてみると、より理解が深まりそうですね!

このブログでは、様々な歴史の人物・出来事についてまとめていますので、ぜひ他の記事も見てみてください。

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