【天下分け目】関ヶ原の戦いでの裏切り?戦況を大きく動かした小早川秀秋についてわかりやすく解説!

こんにちは!

天下分け目の関ヶ原』と称されるほど歴史上のターニングポイントとなった関ヶ原の戦い

歴史ファンでなくとも一度はその名を聞いたことがあるのではないでしょうか?

徳川家康率いる東軍石田三成率いる西軍を破り、天下を手中に収めたとする戦いです。

関ヶ原の戦いについてまとめた記事もありますので以下からご覧ください!

この天下分け目の関ヶ原家康が勝利したのには『裏切り』があったことが大きく影響したとされています。

では、が何の目的で裏切りをしたのでしょう?

ここでは、関ヶ原の戦いでの『裏切り』について検証し、わかりやすくまとめていきます!

小早川秀秋の裏切り

関ヶ原の戦いでの『裏切り』といえば、小早川秀秋の名前が浮かぶ人も多いでしょう。

秀秋は当初、西軍石田三成と共に戦っていましたが、戦いの最中に東軍の徳川家康の元へと寝返るのです。

では、なぜ秀秋三成を裏切ってしまったのでしょうか?

秀秋の生い立ち

小早川秀秋豊臣秀吉の正室であるねねの甥という立場から3歳の頃に秀吉の養子となりました。

その頃、秀吉は自らの後継者となる息子を待望していましたが、なかなか子供ができません。

秀吉は半ば長男の誕生を諦めていたことから、豊臣秀次小早川秀秋豊臣家の後継となることが有力視されていました。

小早川秀秋は幼い頃から豊臣家の後継候補として期待されていた

しかし、秀吉が57歳の時に側室である淀殿との間にできた長男、秀頼の誕生によって状況は一変します。

秀吉待望の長男が誕生したことにより、後継の座はすぐに秀頼へ。

このことにより豊臣秀次小早川秀秋は逆に煙たがられるようになってしまったのでした。

秀次は切腹を命じられ、秀秋も領地を取り上げられた後、朝鮮出兵を命じられてしまいました。

ここから小早川秀秋豊臣秀吉とその側近である石田三成に対し恨みを抱くようになっていったのです。

豊臣秀頼の誕生により、秀秋は後継としての立場を追われ、秀吉と三成に恨みを抱くようになった

関ヶ原での小早川秀秋の動き

石田三成徳川家康の対立から関ヶ原の戦いが勃発することになりますが、秀秋は元々豊臣家の人間であったため、立場上石田三成率いる西軍として戦いに参加することとなりました。

しかし、上記のように秀秋豊臣家、そして石田三成に恨みを持っていますから、胸中は複雑な思いもあったでしょう。

この思いを知ってか知らずか、家康は熱心に秀秋を勧誘し続けました。

関ヶ原の戦いで家康は熱心に秀秋を勧誘した

これにより秀秋は戦闘の最中に作戦変更し、西軍を攻撃したのです。

この時秀秋の軍は関ヶ原を一望できる松尾山に陣取っていました。

この好立地に陣取った秀秋東軍に寝返ったことにより戦況は一気に東軍有利に傾きました。

このまま家康率いる東軍がわずか1日で決着をつけてしまったのでした。

秀秋が寝返ったことで一気に東軍有利となり、関ヶ原の戦いはスピード決着に終わった

戦いのその後

わずか1日で家康率いる東軍の勝利に終わった『天下分け目の関ヶ原』でしたが、小早川秀秋はこの勝利の立役者として家康に高く評価されました。

このことは、東軍の主力として奮闘した黒田長政福島正則よりも与えられた領地が多かったことが示しています。

秀秋は戦いぶりを高く評価され、多くの領地を与えられた

若干18歳にして55万石もの有力大名となった秀秋でしたが、そのわずか2年後、20歳の若さで亡くなってしまったのでした。

それだけでなく、秀秋の死後は小早川家の後継がいなかったため、55万石もの領地は幕府に没収されることとなってしまいました。

有力大名となった秀秋だったが20歳の若さでこの世を去る

歴史にたらればは無いのですが、若くして有力大名となった秀秋が長生きしていればどのような功績を成し遂げたのか、個人的にすごく興味があります。

『裏切り』のイメージの強い小早川秀秋ですが、背景や人間性を想像してみると、天下分け目の関ヶ原も印象が変わって見えるかも知れませんね。

まとめ

  • 小早川秀秋は幼い頃から豊臣家の後継候補として期待されていた
  • 豊臣秀頼の誕生により、秀秋は後継としての立場を追われてしまった
  • 関ヶ原の戦いで家康は熱心に秀秋を勧誘した
  • 秀秋が寝返ったことで一気に東軍有利となり、関ヶ原の戦いはスピード決着に終わった
  • 秀秋は戦いぶりを高く評価され、多くの領地を与えられた
  • 有力大名となった秀秋だったが20歳の若さでこの世を去る