【麒麟が来る】長良川の戦いとは?明智光秀との関わりは?【解説】
こんにちは!
2020年の大河ドラマといえば明智光秀を主人公とした『麒麟が来る』ですね!
ここでは、そんな『麒麟が来る』を10倍楽しむために、『長良川の戦い』をわかりやすく解説していきます!
長良川の戦いとは?
明智光秀が幼い頃から明智家とも非常に深い関係に合ったとされている斎藤家。
光秀が若い頃から斎藤道三(どうざん)に仕えていた、という説もあります。大河ドラマ上ではその説でストーリーが展開されていますね。
(明智光秀の幼少期については実はよくわかっていません。)
美濃(岐阜県)の戦国武将であり、斎藤家の当主である斎藤道三と、その嫡男(息子)である斎藤義龍(よしたつ)によって行われた戦いが『長良川の戦い』です。
『長良川の戦い』は、斎藤道三と、その嫡男である斎藤義龍によって繰り広げられた
戦が起こった原因
斎藤道三と、その長男である義龍によって繰り広げられた『長良川の戦い』ですが、どのようなことが原因で戦に発展してしまったのでしょうか?
斎藤道三は1554年、長男である義龍に国を譲ります。
当初は義龍に国を任せようと考えていた道三でしたが、徐々に義龍の弟に当たる孫四郎と喜平次を寵愛するようになります。
さらに、孫四郎と喜平次は調子に乗り、義龍を見下すような言動を度々行なっていたのでした。
また、義龍は、自分に与えていた国を取り上げ、弟たちを後継にするのではないかとも考えるようになります。
こうして、道三と義龍の不仲は深いものになっていきました。
道三が義龍の弟たちを寵愛し、義龍を無下に扱ったことにより、二人の間の溝が深刻なものに
義龍が動く
道三や弟たちに不満を持った義龍は、まず弟の孫四郎と喜平次を呼び出し、殺害します。
さらに、義龍はこのことを父である道三に伝え、戦へと発展していくのです。
義龍は弟たちを殺害し、道三に宣戦布告
長良川で開戦
戦が始まると、斎藤家中の多くの家臣が義龍側につきました。
戦力としては、斎藤義龍軍の17000を超える軍勢に対し、父、斎藤道三軍の軍勢は2700にとどまりました。
道三は圧倒的に不利な軍勢の中でも健闘しましたが、他勢には及ばず、斎藤道三は敗死することとなったのでした。
斎藤義龍軍の多勢に及ばず、斎藤道三は敗死した
明智家との関係
ちなみに隣国で関係の深かった明智家は、この戦いに参加していないとされています。
この時はすでに明智光秀の父は亡くなっていたため、光秀の叔父にあたる光安(みつやす)が明智家を指揮していたようです。
光安の指示で、明智家はこの戦いのどちらにもつかず、中立の立場を保っていたのですね。
明智家は長良川の戦いでは、中立の立場を保っていた
明智家のその後
長良川の戦いで勝利した斎藤義龍は、斎藤家を率いることとなりますが、明智光安率いる明智家は義龍の下につくことを拒みました。
このことにより、斎藤義龍軍は明智城に3000の軍勢を向け、明智城を制圧したという説もあります。
服属を拒んだ明智家に対し、斎藤義龍が攻撃、明智城を制圧(諸説あり)
明智光秀の若い頃の出来事は、はっきりとした記録が少なく、様々な説があります。
ここで紹介したものはあくまで一説に過ぎませんが、明智光秀がどんな幼少期、青年期を送ったのか考えてみると、面白いかもしれませんね。
まとめ
- 『長良川の戦い』は、斎藤道三と、その嫡男である斎藤義龍によって繰り広げられた
- 道三が義龍の弟たちを寵愛し、義龍を無下に扱ったことにより、二人の間の溝が深刻なものに
- 義龍は弟たちを殺害し、道三に宣戦布告
- 斎藤義龍軍の多勢に及ばず、斎藤道三は敗死した
- 明智家は長良川の戦いでは、中立の立場を保っていた
- 服属を拒んだ明智家に対し、斎藤義龍が攻撃、明智城を制圧(諸説あり)
-
前の記事
【江戸三大改革】水野忠邦による天保の改革とは? 2020.01.20
-
次の記事
【比較】日本史の得意なインターネット塾、家庭教師を紹介! 2020.01.30