【生涯年表】真田昌幸ってどんな人?年表を使ってわかりやすく解説!

こんにちは!

2016年のNHK大河ドラマとして放送された『真田丸』。

人気の戦国武将である真田幸村を主人公として描いた本作品はストーリーの面白さや完成度の高さから、歴代大河ドラマの中でも多くの評価を得た作品でもあります。

劇中では、幸村の父でもある戦国武将、真田昌幸の人柄も色濃く描かれ、こちらも大きな注目を集めました。

名将として、息子の幸村とともに戦国乱世に名を馳せた真田昌幸の生涯はどのようなものだったのでしょうか?

ここでは真田昌幸の生涯を年表にまとめ、数多くの逸話も紹介していきます!

真田昌幸の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1547年
(1歳)
真田幸隆の三男として生まれる。幼名は源五郎。
1553年
(7歳)
武田信玄の命により、人質として甲斐国へ入る。
1564年
(18歳)
山手殿と結婚。
1566年
(20歳)
嫡男、真田信幸が誕生。
1567年
(21歳)
次男の真田信繁幸村)が誕生。
1573年
(27歳)
仕えていた武田信玄が53歳で病死。家督を継いだ武田勝頼に引き続き仕える。
1575年
(29歳)
長篠の戦いに武田軍として参戦するも、信長・家康軍に敗退。
この際に兄の信綱昌輝が敗死したため、昌幸は真田へ戻り、真田家の家督を継ぐ。
1579年
(33歳)
武田勝頼の命により、名胡桃城、小川城を攻略。
1580年
(34歳)
沼田城、猿ヶ京城を攻略。
1582年
(36歳)
武田勝頼を岩櫃城に迎えようとするが、勝頼は道中で襲われ、死去。
これに伴い、昌幸織田信長に仕える。
しかし、織田氏に仕えてわずか3ヶ月後、本能寺の変により織田信長は死去する。
1583年
(37歳)
上田城を築城。居城とする。
1585年
(39歳)
第一次上田合戦にて徳川軍に快勝。
1600年
(54歳)
関ヶ原の戦い石田(豊臣)軍として参戦。
徳川家康率いる東軍に敗れ、息子の信繁(幸村)とともに九度山に幽閉される。
1611年
(65歳)
10年以上に及ぶ幽閉生活中に九度山にて病死。享年65。

真田昌幸の生い立ち

昌幸は1547年、真田幸隆の三男として、信濃(現在の長野県)に生まれました。

信綱昌輝という二人の兄がいたため、当時の昌幸には家系の継承権はありませんでした。

さらに、昌幸が生まれた頃の真田家は小豪族であり、決して有力とは言えません。

そんな中で、真田家を有力な大名と並ぶほどに育てあげたのが真田昌幸です。

では、昌幸はどのようにして、弱小の真田家において戦国時代を生き抜いたのでしょうか?

昌幸の生まれた頃の真田家は信濃の小豪族に過ぎなかった

武田信玄との関係

昌幸は7歳の頃に武田信玄のもとに人質として出ます。

人質とはいうものの、武田信玄には大層可愛がられており、家臣の一人(奥近習衆)として過ごしました。

幼少期を名将の武田信玄のもとで過ごしたことは昌幸に大きな影響を与えました。

武田信玄のすぐそばで軍議や戦略会議を見ることで、自然と戦略勘が身について行ったのではないでしょうか。

のちに、徳川家康を苦しめた天才的な戦略は幼少期から養われたものでもあったということなのですね。

幼少期を武田信玄のもとで過ごす

表裏比興者と呼ばれる

29歳の時、長篠の戦いが勃発。

昌幸武田軍として参戦しますが、強大な戦力の織田軍のもとに敗戦を喫してしまいます。

この時に兄の信綱昌輝が相次いで討死したため、三男である昌幸真田家の家督を相続することになりました。

長篠の戦いに敗戦、兄の死により真田家の家督を相続する

武田家が滅亡してからの真田家は主君を取っ替え引っ替え、転々とします。

武田家滅亡後、初めて仕えたのが織田信長でした。

しかし、信長に仕え始めてわずか3ヶ月後、明智光秀による本能寺の変が発生。

織田信長は自害してしまいます。

これを機に、織田家を離れた昌幸は、北条家、徳川家、上杉家と、主君を次々と乗り換えていきました。

これにより、秀吉からは『表裏比興者』(ひょうりひきょうもの)と呼ばれました。

『表裏』は裏表の分からない様、つまり何を考えているのか分からない様子。

『比興』は卑怯という意味の当て字でもありますが、その意味の他にも『何をしでかすか分からない食わせ者』と、評価する言葉でもありました。

昌幸の『表裏比興者』っぷりが戦国時代を生き抜く一つの武器になっていたのかもしれませんね!

主君を転々とし、秀吉に『表裏比興者』と言われた

犬伏の別れ

真田昌幸を語る上で外せないエピソードが、『犬伏の別れ』です。

時は1600年、天下分け目となる戦いが開かれようとしていました。

石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍がぶつかる関ヶ原の戦いです。

真田家は西軍、東軍のどちらからも援軍の誘いを受けていましたが、どちらに参戦するか決めかねていました。

そこで、昌幸と嫡男の信幸(信之)、次男の信繁(幸村)の3人によって軍議がなされます。

西軍の石田三成昌幸は姻戚関係にあり、次男の信繁(幸村)も西軍の大谷吉継の娘と結婚していました。

しかし、嫡男の信幸の正室は、東軍の本多忠勝の娘である稲姫

親子3人の軍議は激論を極めます。

結果的には、昌幸信繁が西軍に、信幸が東軍に付き、親子3人が敵同士として戦うことになってしまいました。

このことは、密議が行われた犬伏(現在の栃木県)の地の名を借り、『犬伏の別れ』と呼ばれ、語り継がれています。

関ヶ原でどちらの軍が勝ったとしても真田家の血を残すためという説もありますが、昌幸の心中はどのようなものだったのでしょうか。

関ヶ原の戦いでは昌幸、信繁は西軍に、信幸が東軍に別れる(犬伏の別れ)

関ヶ原の戦い

親子3人が別れた関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍が有利に運び、石田三成率いる西軍に勝利を収めました。

各軍に別れた昌幸、信幸、信繁は幸いにも敗死することはありませんでしたが、敗れた西軍の昌幸、信繁には九度山での幽閉生活が待ち受けていました。

この時の昌幸は54歳。

当時の平均寿命を考えても時間がありませんでした。

昌幸は最後まで赦免の希望を訴え続けていましたが、病魔が体を蝕んでいきます。

昌幸は九度山で静かに暮らすこと10年余り、65歳にして病床に伏したのでした。

晩年は病気がちであった昌幸は、志半ばにして病死(享年65)

まとめ

いかがだったでしょうか?

歴史上においては真田=幸村のイメージが強いですが、父である昌幸も知将として名を馳せた武将であることがわかりますね。

一国の称号族に過ぎなかった真田家を戦国屈指の有力家に育てあげた昌幸について興味が沸いた方には、NHK大河ドラマ『真田丸』がオススメです!

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こちらに同様の方法で『麒麟がくる』を視聴する方法をまとめていますので、参考にしてみてください!

  • 昌幸の生まれた頃の真田家は信濃の小豪族に過ぎなかった
  • 幼少期を武田信玄のもとで過ごす
  • 長篠の戦いに敗戦、兄の死により真田家の家督を相続する
  • 主君を転々とし、秀吉に『表裏比興者』と言われた
  • 関ヶ原の戦いでは昌幸、信繁は西軍に、信幸が東軍に別れる(犬伏の別れ)
  • 晩年は病気がちであった昌幸は、志半ばにして病死(享年65)