【生涯年表】明智光秀ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

2020年NHK大河ドラマ『麒麟が来る』の主人公として話題の明智光秀

歴史上は悪役とされることが多い光秀ですが、『麒麟が来る』では主人公として描かれ、これまでの歴史ファンのイメージを大きく変えようとしています。

ここでは、そんな明智光秀の一生涯について年表形式でわかりやすくまとめていきます!

明智光秀の生涯年表

ここからは明智光秀の生涯を年表としてまとめていきます。

しかし、明智光秀の若い頃の記録ははっきりとした信憑性のある資料が少なく、生年もはっきりしていません。

ここでは、諸説ある中でも比較的信憑性の高い二次資料『明智軍記』に基づいて解説していきます!

西暦(年齢)出来事
1528年
(1歳)
美濃国斎藤道三の家臣であった明智光綱の子として誕生。
1535年
(6歳)
光綱が没し、明智城主の座を後見する。
1556年
(27歳)
長良川の戦いにより、明智城を攻められ明智家は離散。
1566年
(37歳)
足利義昭を奉じた織田信長に許可を取り京へ上洛する。
1570年
(43歳)
姉川の戦いに参戦。
1571年
(44歳)
信長の命により比叡山焼討ちを決行。
1577年
(50歳)
亀山城の築城を開始。翌年に完成。
1582年
(55歳)
信長の命により、対立していた毛利家との戦に出馬。
軍の進路を本能寺に変更。本能寺織田信長を自害に追い込む。(本能寺の変
中国大返しにより駆けつけた秀吉軍と激突。(山崎の戦い
敗走中に落ち武者狩りに遭い敗死。

明智光秀の人柄

明智光秀の生涯や生い立ちについてははっきりしていない部分が多くあり、どのような人柄だったかはよくわかっていません。

織田家に仕えるようになってからは多くの資料が残っていますが、『本能寺の変』の動機など、光秀が日頃どのようなことを考えていたのかなかなか推測しづらいことも多くあります。

しかし、フロイス記には、光秀の性格は「狡猾で密会を好む」と記されています。

このことや、長年仕えて可愛がられてきた織田信長を攻め込むなど、陰湿な一面が見て取れます。

こうした性格の一部分が切り取られてしまっているのも、光秀『歴史上の悪者』とする一つの要因なのかもしれません。

一部の資料によると光秀は陰湿な性格であったとされている

まとめ

上記のように光秀は陰湿な性格であったとされていますが、資料が少ないことも少なからず影響していることでしょう。

しかし、『麒麟が来る』ではスポットライトが当たることが少なかった光秀を主人公として描いているため、こうしたイメージとは違った光秀が見れるかもしれません。

『麒麟が来る』の世界だけでなく、光秀の幼少期の資料や、直筆の手紙がより多く残っていたなら、陰湿な部分以外も見ることができたかもしれませんね。

また、さらに深く光秀について深く調べていくと、光秀の違った一面が観れるかもしれません!

当ブログでも明智光秀『麒麟が来る』についての記事を数多くまとめています!

是非そちらも観ていってくださいね!

  • 一部の資料によると光秀は陰湿な性格であったとされている
  • 光秀についてさらに深く調べることでまた違った一面も見ることができる