【坂本龍馬】近江屋事件とは?坂本龍馬の最期についてわかりやすく解説!

こんにちは!

歴史的な建造物の多く残る京都。

その中において多くの歴史ファンが『近江屋跡』を訪れます。

現存する建造物が残っていない中で、多くの歴史ファンを集めていることからは坂本龍馬の強い人気が窺い知れます。

ここでは、坂本龍馬の最期の舞台となった近江屋での事件についてわかりやすく解説していきます!

近江屋事件の背景

薩長同盟を斡旋した坂本龍馬は自らを薩摩藩士と名乗り(実際は土佐藩出身)、京都の本拠地として『寺田屋』と呼ばれる旅館を利用していました。

江戸幕府に命を狙われていた龍馬は寺田屋で襲撃されます。

西郷隆盛の尽力による薩摩での湯治旅行を経て、慶應3年10月には同じく京都の『近江屋』という旅館に移り住みます。

寺田屋で襲撃された龍馬は近江屋へと移る

近江屋に移った後も変わらず命を狙われ続ける龍馬でしたが、薩摩藩邸へ入る誘いを断って近江屋に身を置き続けていました。

龍馬は薩摩藩邸に入らないかという誘いを断り、近江屋で過ごす

襲撃

慶應3年11月15日午後6時頃、坂本龍馬は盟友である中岡慎太郎と共に近江屋2階の一室で過ごしていました。

午後7時頃に鹿野峰吉を加え、しばらく談笑していましたが、龍馬は腹が減ったとして、峰吉に軍鶏肉を買いに行かせました。

夜になり、近江屋に客人が訪れます。

まず、龍馬の用心棒として近江屋にいた山田藤吉がまず階段下で斬られました。

すると、藤吉が倒れた音を聞いた龍馬は自らの部屋から「ほたえな!(騒ぐな)」と叫びました。

これにより、龍馬のいる場所を察した刺客は2階へと上がり、有無を言わさず龍馬と中岡を斬りつけました。

刺客が近江屋の坂本龍馬と中岡慎太郎を襲撃

前頭部を斬られた龍馬は、床の間に置いていた刀を取ろうと振り返ったところ、右の背中から左の背中にかけてさらに斬りつけられます。

龍馬は刀を取りましたが、抜刀するに至らず、鞘のまま防戦していました。

しかし、龍馬の防戦及ばず、刺客は刀ごと龍馬の頭を一太刀。

この傷が致命傷となり、龍馬は倒れてしまいました。

中岡慎太郎も同様に抜刀できずに鞘のまま防戦していましたが、右腕をほとんど切断された状態で臀部にも骨まで達する深い傷を負いましたが、死んだふりをしてその場をやり過ごしました。

刺客が去ると、わずかに意識のあった龍馬は中岡に医者を呼ぶように話しますが、その一方で「僕は脳をやられたからもうだめだ」と話し、そのまま意識を失ってしまったのです。

龍馬はほぼ即死であったことから襲撃の激しさが窺えます。

あまりの急襲に防戦は意味をなさず、坂本龍馬と中岡慎太郎は斬られてしまった

発見

事件時、近江屋主人の井口新助は1階の奥の間に居り、土佐藩邸に知らせようとしますが、見張りがいたため断念。見張りの目を盗んで裏口から土佐藩邸へと駆け込みました。

新助の知らせを受けた嶋田庄作が駆けつけるのと時を同じくして、軍鶏を買ってきた峰吉が戻ってきました。

彼らが龍馬と中岡を発見した頃には龍馬はすでに息絶えていました。

中岡は意識がありましたが、傷がかなり深く2日後に病院で亡くなりました。

中岡慎太郎は病院に運ばれて息絶えるその寸前まで倒幕の重要性を訴えていたと言います。

襲撃により坂本龍馬はほぼ即死、中岡慎太郎は2日後に死亡した

襲撃を行った実行犯

実は襲撃の実行犯は現在のところよく分かっていません。

当初は新撰組による犯行が疑われていましたが、現在は江戸幕府によるチーム『京都見廻組』による犯行が最も有力とされています。

しかし、現在でも京都見廻組の犯行であることを裏付ける証拠はなく、多くの歴史ファンの間で盛んに議論が交わされています。

近江屋事件の実行犯は諸説あるが、京都見廻組説が有力

皆さんも是非一度、近江屋跡を訪れてみてください。

そして、事件当時の様子を想像してみるのも歴史の素敵な楽しみ方ですね。

まとめ

  • 寺田屋で襲撃された龍馬は近江屋へと移る
  • 龍馬は薩摩藩邸に入らないかという誘いを断り、近江屋で過ごす
  • 刺客が近江屋の坂本龍馬と中岡慎太郎を襲撃
  • あまりの急襲に防戦は意味をなさず、坂本龍馬と中岡慎太郎は斬られてしまった
  • 襲撃により坂本龍馬はほぼ即死、中岡慎太郎は2日後に死亡した
  • 近江屋事件の実行犯は諸説あるが、京都見廻組説が有力