乙巳の変って何?

こんにちは!

皆さんは乙巳の変(いっしのへん)って聞いたことありますか?

日本史の中では色々な『変』や『乱』があってなかなか覚えられないですよね。

その中でも比較的影の薄い『乙巳の変』について解説していきます!

なぜ乙巳の変は起こったの?

蘇我氏が力をつけていった

この時代では天皇と豪族が非常に力を持っており、政治の実権を握っていました。

女性の皇極天皇が即位した時には、様々な政策で平和な朝廷を築こうとした厩戸王(聖徳太子)や豪族である蘇我馬子は亡くなっています。

そのため、政治の実権を握っていたのは蘇我馬子の子の蘇我蝦夷(えみし)、さらに馬子の孫である蘇我入鹿でした。

蘇我入鹿は横暴な性格だったようで、ライバル関係にあった厩戸王の子や山背大兄王(やましろのおおえのおう)を殺害し、自身の権力をどんどん強いものにしていきました。

このことによって厩戸王らが掲げていた『豪族中心でなく官僚による政治』は崩れ、蘇我氏ら豪族が政治の実権を握るようになっていきました。

蘇我氏がライバルを滅ぼし権力を強めた

中大兄皇子、中臣鎌足の政治

その一方で皇極天皇の子である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)やその腹心の中臣鎌足(なかとみのかまたり)は、法に基づいて皆で協力し合いながら政治を運営していく律令国家がより強力な国家を作ると考えていました。

これは中大兄皇子らが隋や唐へ留学していた者たちから中国の国家づくりについて聞いていたためです。

そのため、『今のような豪族中心の政治ではなく、天皇などの王族を中心とした国家づくりを行うべきだ』と考えるようになります。

蘇我氏中心の豪族政治を止めようと中大兄皇子らが立ち上がる

乙巳の変

これにより乙巳の変が起こります。

645年、中大兄皇子と中臣鎌足が皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を殺害するのです。

このことにより、入鹿の子である蘇我蝦夷も自害へと追い込まれました。

中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿、蝦夷を殺害

この乙巳の変により、豪族中心の政治は王族を中心とした政治へと変化していったのです!

時代は『大化』へ

乙巳の変ののち、皇極天皇から、弟の孝徳天皇へくらいが譲られ、皇太子となった中大兄皇子と、内臣となった中臣鎌足を中心に新たな政治が進められることとなります。

この一連の政治改革を『大化の改新』と呼んでいます!

なんとなく繋がりましたでしょうか?

ここから『大化』という元号に変わるのですが、『大化』は日本で初めての元号とされています。

乙巳の変を含む一連の政治改革が『大化の改新』

まとめ

  • 蘇我氏がライバルを滅ぼし権力を強めた
  • 蘇我氏中心の豪族政治を止めようと中大兄皇子らが立ち上がる
  • 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿、蝦夷を殺害(乙巳の変)
  • 乙巳の変を含む一連の政治改革が『大化の改新』
  • 『大化』は日本で初めての元号