延喜の治って何?
こんにちは!
醍醐天皇が行った政治である『延喜の治』。
あまり知られていませんが、素晴らしい政治体制として、のちの天皇からもお手本とされる政治の治め方でした。
ここからは、醍醐天皇の行った『延喜の治』についてわかりやすく解説していきます。
延喜の治の背景
時は平安時代、宇多天皇が皇位を降り、次に皇位についたのが息子である醍醐天皇でした。
この醍醐天皇が理想とされる『延喜の治』と言う政治を行いました。
その背景には、『昌泰の変』と呼ばれる事件が大きく絡んできていました。
昌泰の変
醍醐天皇が即位した際には、父である宇多天皇に従い、右大臣に菅原道真(すがわらのみちざね)、左大臣に藤原時平(ふじわらのときひら)を政治の補佐として立てました。
しかし、菅原道真と藤原時平は非常に仲が悪かったのです。
藤原時平は醍醐天皇にこのようなことを吹き込みます。
「菅原道真は自分が権力を持ちたいばかりに、あなたを追い出す計画を立てていますよ』
これを信じ込んだ醍醐天皇は菅原道真を現在の九州に当たる太宰府へ飛ばしてしまうのです。
この事件が『昌泰の変』です。
醍醐天皇は藤原時平の密告により、菅原道真を太宰府へ左遷させる
こうして、藤原氏は再び力をつけていくこととなるのです。
ちなみに後世の天皇の多くは天皇が幼くして皇位に立つケースも少なくないため、事実上の政権を握る摂政や、成人した天皇を補佐する役目の関白を置くのが通例となりましたが、それはこの時代の政治体制が基礎になっているとされています。
延喜の治とは
延喜格式
醍醐天皇と時平は『延喜格式』と呼ばれる法令を編纂しました。
この延喜格式は同じく平安時代に編纂された、『弘仁格式』『貞観格式』と並んで『三代格式』と称されています。
この格式により、法令整備を進めていきましたが、それと同時に『古今和歌集』を編纂させるなど、文化的にも多大な功績を残していきました。
三代格式の一つである『延喜格式』を編纂
様々な功績を治めたことで理想とされた延喜の治ですが、その中でも最も大きな政策は班田収授法の再整備と言えるでしょう。
延喜の荘園整理令
この時代の以前から行われていた班田収授は、戸籍に登録した農民に田を与え、その代わりに税として米を納めるというものでした。
しかし、税が重すぎるため、戸籍上の農民が逃げ出してしまったり、性別を偽り課税を逃れている農民(女性は調・庸・雑徭の義務がない)が後を絶ちませんでした。
さらに政府から貸し出された口分田の他に荘園と呼ばれる私有地で耕作を行う農民や寺社も現れ始めました。
この醍醐天皇の時代には既にこうした農民が溢れかえっており、戸籍や納税がきちんと機能していなかったのです。
納税がまともに行われないことにより政府は財政難に陥ってしまうので、有力な農民を直接名指しし納税させることとしました。
これを『直営方式』
しかし、この方法は最終手段のようなもので、当時の法律である『律令』にも反しています。
ここで醍醐天皇はこの直営方式を取りやめ、荘園を禁止する法律を制定します。
これが、『延喜の荘園整理令』です。
崩壊した班田収授に代わり、荘園整理令で財政を安定させる
これにより、完璧に政府の財政が安定したわけではありませんが、のちに何度も荘園整理令が出されるように非常に有効な政策でした。
まとめ
- 醍醐天皇は藤原時平の密告により、菅原道真を太宰府へ左遷させる
- 三代格式の一つである『延喜格式』を編纂
- 崩壊した班田収授に代わり、荘園整理令で財政を安定させる
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