【生涯年表】豊臣秀吉ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

天下人として知られる豊臣秀吉。

皆さんも一度はその名前を聞いたことがあるのではないのでしょうか?

ここでは豊臣秀吉の生涯について年表でわかりやすくまとめていきます!

豊臣秀吉の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1537年(0歳)尾張国(現在の愛知県)に生まれる。
幼名は『日吉丸』。
1543年(6歳)光明寺に預けられる。
1551年(14歳)名を『木下藤吉郎』と改名する。
1554年(17歳)織田信長に仕え始める。
1561年(21歳)浅野長勝の娘、おねと結婚する。
当時では異例の『恋愛結婚』とされる。
1566年(29歳)『一夜城』で有名な墨俣城を築城。
1573年(36歳)名を『羽柴秀吉』と改名する。
1574年(37歳)長浜城の城主となる。
1582年(45歳)備中高松の戦いで備中高松城を制圧。
本能寺の変により中国大返しを敢行。
山崎の合戦では明智光秀を倒す。
1583年(46歳)大阪城築城
1586年(49歳)『豊臣秀吉』に改姓、同時に太政大臣に就任。
1590年(53歳)小田原の役に勝利し、全国統一を達成。
1592年(55歳)文禄の役で朝鮮出兵。
1593年(56歳)念願の第一子『秀頼』誕生。
1598年(61歳)伏見城にて病死。

豊臣秀吉の人柄

豊臣秀吉は生まれた時から天下統一するまでは献身的な性格でした。

天下統一することで性格がガラッと変わってしまったとも言われています。

ここからは天下統一の前後で秀吉がどのように変わってしまったのかをまとめていきたいと思います!

天下統一前の秀吉の人柄

まずは天下統一する前の秀吉の人柄からまとめていきます。

1554年から織田信長に仕え始めた秀吉ですが、信長からは大変可愛がられていました。

横暴な性格で知られる信長に好かれていたのは、秀吉の献身的すぎるその性格のおかげであると言われています。

冬のある日、秀吉は、外へ出かけようとする信長の草履を自らの懐に入れて温めていました。

冷たい草履で信長の足の裏が冷たくならないように、という行き届いた配慮からとった行動でした。

これにより信長秀吉を大層気に入ったとされる非常に有名なエピソードです。

このことからも秀吉信長に対して(出世のために)大変な忠誠心を持っていたことがわかりますね。

秀吉は信長の草履を懐で温めるなど、献身的な性格の持ち主であった

天下統一後の秀吉の人柄

天下統一し、権力を手に入れた秀吉は徐々に横暴で残虐な性格へと変化していきます。

秀吉の残虐さを表す出来事には以下のようなものがあります。

  • 親しくしていた茶人である千利休(せんのりきゅう)に切腹を命じる
  • 56歳で念願の嫡男が誕生すると、当初は後継に指名していた豊臣秀次を適当にあしらうようになった。遂には切腹を命じ、秀次の家族も全員処刑した。
  • 周囲の反対を押し切り、朝鮮出兵を敢行する。逆らうものは処罰した。

このように天下統一後の秀吉はやり過ぎと言えるほどの独裁を進めていったのでした。

天下を手にした秀吉は横暴で残虐な性格へと変化していく

まとめ

いかがでしたでしょうか?

豊臣秀吉の年表を読み解いていくと、徐々に変化していく秀吉の性格や心境にも触れることができますね!

より詳しく秀吉について調べることで、歴史上の様々な出来事の背景や、他の武将との関係についても深く知ることができるかもしれませんね。

当ブログでは他にも豊臣秀吉についての記事をまとめていますので、よかったらご覧ください!

  • 秀吉は信長の草履を懐で温めるなど、献身的な性格の持ち主であった
  • 天下を手にした秀吉は横暴で残虐な性格へと変化していく