【生涯年表】西郷隆盛ってどんな人?年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

NHK大河ドラマ「西郷どん」でも取り上げられた西郷隆盛

皆さんも一度はその名前を聞いたことがあるのではないでしょうか?

ここでは、西郷隆盛の生涯について年表でわかりやすくまとめていきます!

西郷隆盛の生涯年表

西暦      出来事      
1827年鹿児島城下に生まれる。
幼名は小吉。
1844年薩摩藩の郡方書役助になる。
1850年藩に農政に関する建白書を提出。
1854年参勤交代で斉彬に従い江戸へ。庭方役になる。
藤田東湖を尋ねる。
1858年僧月照と錦江湾で入水自殺を図る。
その後、奄美大島の龍郷へ。翌年に愛加那と結婚する。
1862年鹿児島に帰るが、久光の命令にそむき、沖永良部島に遠島処分。
1864年禁門の変で薩摩藩兵を指揮して長州郡を破る。
1866年薩長同盟を結ぶ。
1873年朝鮮への施設派遣が中止となり、辞表を提出。
1874年私学校を設立。政府への復帰を要請されるが断わる。
1877年政府軍の総攻撃により、城山で自殺。

西郷隆盛の人柄

下級武士の身分から明治維新の立役者にまで成り上がった西郷隆盛

度重なる離島生活の末、政治の第一線へと舞い戻りますが、逆賊として最期を迎えるも大赦されました。

ここからは、そんな西郷隆盛にまつわるエピソードをいくつか紹介していきます!

極貧だった幼少期

西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士として生まれました。

「御小姓与(おこしょうぐみ)」という、士族とされるグループの中で下から2番目の階級でした。

更に西郷家は、11人の大家族でお給料も多くはなかったため、貧しいことに関するエピソードがいくつかあります。

冬は暖をとるために、兄弟全員で一枚の布団に足を入れて寝たり、家から8kmも離れた畑で早朝から夜まで農作業をしたりしたそうです。

この経験から、西郷隆盛という偉大な人物が出来上がったのかもしれません。

西郷は薩摩藩の下級武士として生まれ貧しい生活を送っていた

木戸孝允との会談を拒否する

1865年5月、薩長同盟の提案を受けた西郷は、中岡慎太郎と共に船で下関へ向かっていました。

下関では坂本龍馬木戸孝允がその到着を待っていました。

しかし西郷は、旅の途中で大久保利通からある手紙を受け取ったのです。

それは大久保が長州と和解することに反対していたという内容でした。

そのため西郷は、中岡を佐賀で船から降ろし、そのまま京へと向かってしまいました。

つまり、木戸との会談をドタキャンしてしまったのです。

しかし同年の6月には、西郷龍馬に対して謝罪しました。

そして翌年から再度、薩長の和解が話し合われましたが、西郷木戸は自分たちの藩のメンツを第一に考えていたため、交渉は難航したと言われています。

ですが龍馬中岡が必死に説得してくれたため、薩摩側から同盟を申し込む形になりました。

西郷は木戸との会談を拒否したが、龍馬と中岡に助けられ薩長同盟を結んだ

大柄な体格だった

いろいろな説はありますが、西郷隆盛の身長は179cmだったと言われています。

江戸時代末期における成人男性の平均身長は155cmくらいだったとされています。

ちなみに、坂本龍馬は172cm、中岡慎太郎は153cmくらいだったのではないかと言われています。

また、体重も109kgだったとされており、当時も周りと比べるとかなり大柄だったと考えられます。

食生活について、西郷は脂身の多い肉や鰻の蒲焼が好物でした。

それに加えて甘党だったとも言われているため、ドイツ人医師のホフマンからは、肥満の診断を受けています。

それをきっかけに、食事療法や狩猟など運動を行うようになったそうです。

なお、西郷隆盛は愛犬家としても有名ですが、犬にも肉をあげ過ぎた結果、猟犬までもが肥満体となってしまったという逸話もある程です。

西郷は大柄な体格で、愛犬までも太らせてしまった

まとめ

いかがでしたでしょうか?

西郷隆盛の年表を読み解いていくと、西郷の生き方や考え方も見えて来ると共に、意外な出来事もあるので面白いですよね。

より詳しく西郷隆盛について調べることで、歴史上の様々な出来事の背景や、他の人物との関係についても深く知ることができるかもしれませんね。

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