【生涯年表】織田信長ってどんな人?その生涯を年表でわかりやすく解説!

こんにちは!

日本史を代表する戦国武将、織田信長

このブログをご覧の皆さんも一度はその名前を聞いたことがあるのでは無いでしょうか?

数多くの戦いを勝ち抜き、天下統一を目前に控えながらこの世を去った信長の波乱に富んだ生涯をわかりやすくまとめていきます!

織田信長の生涯年表

西暦(年齢)出来事
1534年
(0歳)
織田信秀の長男として、尾張(現在の愛知県)に生まれる。
1546年
(13歳)
元服し、名前を『信長』とする。
1549年
(16歳)
帰蝶(斎藤道三の娘)と結婚。
1557年
(24歳)
弟の信勝との家督争いに勝利。
1560年
(27歳)
桶狭間の戦い今川義元に勝利。
1570年
(37歳)
金ヶ崎の戦い、姉川の戦いで浅井長政らに勝利。
1571年
(38歳)
比叡山延暦寺を焼き討ち。
1575年
(42歳)
長篠の戦い武田勝頼に勝利。
1576年
(43歳)
安土城の建造を開始→1579年完成
1582年
(49歳)
本能寺の変により自害

織田信長の人柄

信長は新しいもの好き

織田信長は新しいもの好きなことで知られています。

日本国内では誰も知らない武器や道具などをいち早く海外から輸入し、使用していました。

その代名詞ともなるのが『長篠の戦い』です。

長篠の戦いは、織田信長徳川家康が同盟を組んで武田勝頼を下した戦いです。

この戦いを前に信長は、日本国内ではほとんど出回っていなかった鉄砲を大量に輸入、製造させました。

その数なんと3000挺と言われています。

しかし、当時の鉄砲は発砲するまでの時間がかかるという欠点も備えており、実戦で使用するには不向きな武器でした。

そこで信長鉄砲隊を3列に分け、順番に発砲していく作戦をとるのです。

この作戦により武田軍騎馬隊を寄せ付けず、圧勝したのでした。

信長は鉄砲に着目し、画期的な戦法で武田軍に勝利

信長は粗暴な性格

信長は粗暴で冷徹な性格であることも有名な話です。

信長の性格を詠んだ句として有名なものに、

鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

という句があります。

敵対する相手にはもちろん、気に入らない家臣に対しても粗暴で冷徹な振る舞いを取っていたことを表している句です。

比叡山焼き討ち』はこんな信長の性格を顕著に示しています。

敵対する比叡山延暦寺に火を入れ、女や子供にも構わず、全員を皆殺しにしたという恐ろしい事件です。

殺害した人数は資料によって諸説ありますが、1000~3000にのぼると言われています。

比叡山焼き討ちでは女、子供を含め比叡山の多くの人を殺した

そのほかにも家臣である豊臣秀吉を『』と呼んでいたり、同じく家臣の明智光秀を『きんかん頭(はげ頭)』と言って罵ったりしていることも知られています。

戦国時代のヒーローとして知られる織田信長ですが、このような粗暴な一面もあったようです。

家臣にも過剰と言える『いじり』をしていた

織田信長の最期

天才的な戦略によって勝利を積み重ね、支配領土を増やしていった信長は49歳にして、未だ誰も成し遂げていない天下統一を目前に控えていました。

そんな信長を悲劇が襲います。

本能寺の変』です。

家臣である明智光秀織田信長のいる本能寺に攻め入ったという事件。

この本能寺の変によって信長の人生は幕を閉じるのです。

家臣に裏切られての自刃というのは『戦国時代のヒーロー』にはあまりにも似合わない最期ですが、これには上記のような粗暴な性格が関係しているという説もあります。

実際のところ、なぜ光秀本能寺に攻め込んだのかは明らかになっておりませんが、信長から受けた過剰な『いじり』に耐えかねたというのも一理ありそうです。

本能寺の変で家臣の明智光秀に裏切られ、自害

まとめ

いかがでしたでしょうか?

残虐な一面も持つ織田信長ですが、戦国武将としての大きな魅力があるのも確かです。

さらに深く信長について調べていくことで、様々な出来事を違った角度から見ることができるかもしれませんね。

当ブログではほかにも織田信長に関する記事を他にもまとめていますので、よかったらご覧ください!

  • 信長は鉄砲に着目し、画期的な戦法で武田軍に勝利
  • 比叡山焼き討ちでは女、子供を含め比叡山の多くの人を殺した
  • 家臣にも過剰と言える『いじり』をしていた
  • 本能寺の変で家臣の明智光秀に裏切られ、自害